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カテゴリー「NHK大河「平清盛」」の5件の記事

2012年12月24日 (月)

諸行無常、盛者必衰の理‐大河ドラマ「平清盛」最終回より

 ♪ぎお~ん~~しょ~うじゃ~の~~~(ベン)、かね~の~こえ~~(ベン・ベン)、しょぎょ~~うむじょ~う~~の~~(ベン)、ひびき~~あり~~~(ベン・ベン・ベン)・・・♪。

 NHK大河ドラマ「平清盛」最終回。清盛の死と、その後の一族の末慮を描いていますが、その評価は他のブログに譲るとして(笑)、感想を幾つか。

 清盛の死因。熱病のようですが、水がすぐに蒸発したり、「頼朝の首を墓前に供えよ」など平家物語に沿った内容でした。「水が蒸発するほどの熱」ならとっくに死んでいるはずですが(笑)。…で、この熱病、通説によれば土着のマラリアだとか。「マラリア」といえば熱帯地方の病気だと思っていたので、ちょっと驚きです。

 平家物語で脱落者として描かれる平頼盛ですが、「平家の血を絶やさぬように」との、兄清盛の遺言だったんですね。頼盛が「平家物語」の生演奏を聴いている場面が出てきますが、「平家物語」の成立って、そんなに早かったですかね(笑)。

 今回のセリフの中で2・3回出てくる「日本一」の発音ですが、「にほんいち」になっていることに違和感を覚えました。自分のイメージとしては、この時代「ひのもといち」な気がします。戦国物の見過ぎですかね(笑)。「にほん」の発音はもう少し後で、この時代は「にっぽん」か「ひのもと」だったのでは?「やまと」はたぶん既にない。

 清盛が思い描く国(国同士の交易)が出来るのは、ようやく室町時代になってからだとか。ただ史実として民間貿易は続けられていいたわけで、清盛を助けた元海賊衆の描写がそのことを暗示しているようです。・・・で、乗っている船がヨーロッパの帆船のように見えたのは私だけでしょうか(汗)。

2012年8月28日 (火)

夕日が昇る?-大河ドラマ「平清盛」より

 8月26日放送の「清盛、五十の宴」、あらすじについては他のブログでも取り上げられていることと思うので省きます(汗)。で、平家の台頭を快く思わない摂関家との対決の後、日没近く、清盛が舞を舞っていると夕日が昇るという奇跡が起こります。

 どこかで聞いた話・・・と思ったら、長者伝説の一つに「夕日を昇らせた長者がその後没落してしまう」というのがありました。

 案の定、清盛が病に倒れます(まだ10年は生きているはずですが)。この話、平家物語か何かで残っているのでしょうか?それとも原作者の創作?夕日を昇らせる奇跡が、平家滅亡を暗示しているかのようです。

2012年7月16日 (月)

何故、伊豆?

 15日の大河ドラマ「平清盛」で、平治の乱の戦後処理が放映されていました。ここで源頼朝が伊豆に流されることは学校でも習いましたが、何故伊豆(東国)なのか?

 東国は源氏の基盤のはず。若き日の義朝は関東で武者修行をし、平治の乱に敗れた時も、関東で再起を図るべく落ち伸びようとします。「平清盛」でもそのような描かれ方をしていたような。

 ドラマでは「源氏を滅ぼす!」と云っておきながら、御曹司を源氏の勢力圏へ流す。流すなら平氏の勢力圏である西国に流した方が、監視できると思うのですがねえ。頼朝義朝の面影を重ねた清盛が、頼朝が力を付けて這い上がって来るのを期待したということか。

 今まで、書籍やネット上でも伊豆に流された理由について言及したものにお目にかかった事がないのですが、その訳は・・・

  • 誰も注意を払わなかった?
  • そもそもこの当時、源氏の勢力圏なるものは存在しない?
  • 自分が発見できないだけ(汗)

 こんなところでしょうか。

 余談ですが、
 頼朝が処刑されなかった理由として、若くして亡くなった池禅尼の実子家盛に似ていたためと云われていますが、配役は違う人ですよね。「家盛に似ている」と云う池禅尼の言葉に対して清盛に「似てません」と云わせたかったのかな?
 「似ている」と云えば普通容姿だと思うのですが、雰囲気とかオーラと云ったものが似ているとは、解釈が新鮮な気がします。

2012年4月 8日 (日)

家盛決起―「平清盛」より

家盛を死に追いやったのは摂関家藤原頼長か?

今回の大河で家盛の死因をどう描くのか気になっていたところですが、自分を重用してくれる頼長の思惑を知ってしまったことが、精神的ストレスになったという事でしょうか?それとも延暦寺の呪詛によるものか?せっかく棟梁に決まりかけていたのに、平家一門は荒れそうです。家盛の死で頼長の思わくも外れてしまいますが、はたしてどうなることか。保元の乱の序章か。

ところで今までの流れ、平家物語ではどの辺に当たるのか気になって調べてみました。
ネット上をサッと目を通しただけですが、平家物語12巻のうちまだ1巻目、しかも最初の方なので驚いてしまったw(゚o゚)w 清盛が登場するのは、父忠盛が死んだ後。祇園闘乱事件のエピソードも載っていないですねえ。

2012年4月 1日 (日)

祇園闘乱事件ー大河ドラマ「平清盛」より

久安3年(1147)、祇園社の関係者と清盛の朗党が小競り合いを起こした事件。清盛は、わざと宝殿(ドラマでは神輿)に矢を放ったとか。

この事件で、平家の跡取りを弟の家盛にという動きが出てきますが(ドラマでは家盛が直接清盛に宣戦布告)、次回に続く(*^-^)

で、史実通りなら2年後の久安5年(1149)、弟の家盛が20代の若さで急死します。鳥羽法皇の熊野参詣に病を押して同行し、病を悪化させ亡くなったとされていますが、この家盛急死の件、ミステリーファンの私としては謀略の臭いがプンプンします。なにせ、清盛の立場を危うくする人間がいなくなるわけですから。

家盛は本当に病死なのか?謀略によって殺されたのか?表面上病死に見えるような殺され方をしたのか?公的には死んだことになってるが、実は生きていたとか?

最後の生存説、実は長崎県五島列島北端の宇久島に一つの伝承が残されています。伝承によると、壇ノ浦の合戦後宇久島に流れ着いた平家盛が、五島の戦国大名五島氏の祖となったというものです。

はたして、かの平家盛は死んだはずの清盛の弟なのか?同一人物なら壇ノ浦までの30年余り、どこで何をしていたのか?かえって謎が増えてしまった(゚ー゚)

次週、ドラマがどんな展開になるのか楽しみです。

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