2016年2月18日の「秘密のケンミンショー」で紹介されていた北海道中山峠のあげいも。じゃがいもに衣をつけて油で揚げた料理だけど、長崎にも似たような料理がある。久しぶりに買いに行った。
長崎県雲仙市、千々石観光センターで売っている「じゃがちゃん」。じゃがいもに衣をつけて油で揚げてます。外はカリッとしていて、中はホクホク。1本200円。ここでしか売ってません。こちらもネットで検索すると結構出てきます。考案されたのは40年ほど前だそうです。あげいもと同じくらいか少し新しいくらいでしょうか。
で、「あげいも」のほうですが、中山峠は立ち寄った覚えはあるのに印象にありません(汗)。雪の羊蹄山に見とれて気が付かなかったのか、または長崎にも似たようなものがあると思ってスルーしたか。
先日熊本に行く機会があったので、熊本の郷土料理だという「太平燕」を食べてみました。
7月6日放送、第27回の感想あれこれ。
1月19日(日)、「勝浦人形浄瑠璃」の地元福岡県福津市で、九州人形芝居フェスティバルがあったので見に行きました。
今年、西暦2013年は皇紀2673年。特に切りのいい数字でもなく、もちろん建国記念日でもない。なのに何故か、ふと気になった。強いて挙げれば、今から10年前の2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループが、弥生時代の開始を紀元前1000年ごろまで繰り上げる説を発表したことだろうか。
「弥生時代の始まりはいつなのか?」
従来は紀元前3世紀ごろだったはず。
皇紀元年、紀元前660年と云えば、従来、未だ狩猟採集社会の縄文時代。そんな時代に「王様」がいたのだろうか。「王様」が出てくるのは、農耕社会の弥生時代以降では。ところが弥生時代の開始を紀元前10世紀にすると、紀元前7世紀に「王様」がいてもおかしくないことに?
説が発表されてから10年。試しにネット上を検索してみると、弥生時代の始まりを紀元前3世紀としているものが多い。
ならば、学校ではどうなのか。あいにく中学高校の教科書を見ることが出来ないので参考書を覗いてみた。すべてに目を通してないが、概ね紀元前4世紀のようだ。
紀元前10世紀は、まだ定説にはなってないようです。でも、いつの間にか100年遡っている(汗)
紀元前4世紀が定説と云う事か?
3月3日、ネットを閲覧していたら面白いタイトルを見つけた。
「ひな祭りは本来巳の日に行うもの 今年は4日にやるべきと識者」と。
※ただ、これに続く内容が私の期待とはズレていたのでリンク張っていません(汗)。
…で調べてみると、
・3月3日を「上巳」といい、5節句の一つである。
・上巳の本来の意味は「3月最初の巳の日」である。
・中国では三国時代の魏の時代、3月3日に固定化された。
・日本でも室町時代に「3月3日の儀式」として定着した。
・この日はお祓いや禊を行う。
・穢れを人形(ひとがた)に移して流したのが、雛人形のはじまり。
・ひな祭りの起源にも諸説ある。
こんなところでしょうか。この手の情報がほしかった(笑)。
上巳の節句が3月3日に固定化されたのは最近の話ではないようで、「巳の日」にこだわる必要もないのではないでしょうか。・・・て言うか、それを言うなら旧暦3月最初の巳の日(4月上旬)に行うよう提案するのが良いのでは。ちょうど桃の花が咲くころだし、「桃の節句」に相応しいでしょう。
また、そもそも上巳の節句とひな祭りが元々一つのの行事だったのかどうか、短い時間で調べるには少し奥が深いようです(汗)。
今年は、例年に比べてオーロラがよく見えるとか。しかも今度の年末年始は、人によっては9連休だというのでオーロラを見るツアーが流行っているらしい。金も時間も無いわが身としては、過去の記録を探すことしかできないのですが・・・。
日本のような低緯度地域でも、オーロラを見ることが出来るんですねえ。低緯度に表れるオーロラは赤い色をしているそうで、昔は「赤気」と呼ばれていたとか。
・・・で、調べてみるとありました。「日本書紀」の推古28年12月1日の記録に、
天に赤色の気が現れた。長さは一丈あまりで、形は雉の尾のようであった。
(講談社学術文庫「日本書紀(下)」)
今から1400年ほど前ですね。日本最古の記録らしいです。
ついでに、同じ日本書紀の天武11年8月11日にもそれらしい記述がありました。これらの現象は、果たした不吉な現象と映ったでしょうか?推古時代では2ヶ月後に聖徳太子が死去してますし、天武時代には翌日に大地震が起きてます。
また江戸時代の1770年には、ここ長崎でも赤気が見えたらしいのですが、その記録を見つけきれないまま時間切れ。残念。
中世から長崎県中央部、肥前の国彼杵郡を領し、明治維新までそこを動かなかった「大村氏」、その大村氏について、「大村氏の先祖は藤原純友である」、江戸時代から長い間、そう信じられていました。
ところが昭和32年大村水害の折、古城跡の崖崩れで、一つの五輪塔地輪が発見されます。幅55cm、高さ25cmの滑石で、正面に「中庵 大永三年癸未七月十二日孝子敬白」、側面に「平朝臣前勢州太守純伊」とあり、室町時代後期の様式を備えています。大村氏が実は平氏である根拠の一つとしてよく取り上げられます。江戸時代の当事者はそれを知りえなかったのではないかと考えられました。
(大村市立史料館特別展パンフレットより)
しかし、その説に一石を投じる資料が、平成20年佐賀市内の寺院で見つかります。見つかったのは「大般若波羅蜜多経」。この末尾の署名に、「延徳四年壬子三月十五日大村民部大輔藤原純治」とあります。元は大村市松原にある八幡宮に寄進されていたものです。
純治が純伊の父であることは間違いがないようで、その純治は藤原姓を名乗っていたと云う事のようです。郷土史家の先生によると、その頃の「姓」は夫々好き勝手に名乗っていたようで、親子で「姓」が違うのは珍しくないとか。
江戸時代には、純伊が平氏を名乗っていたとされる史料が失われており、その父純治が藤原氏を名乗っていたと云う史料あるいは伝承だけが残って、長いこと大村氏は藤原姓であると信じられてきたようです。
今後の研究が待たれるところですが、「実はどちらでもないのではないか」と突っ込みたくもなります(笑)。
国内の広い範囲で見られる金環食としては932年ぶりという事で、932年前の出来事を調べて見ることにしました。
西暦1080年の出来事が載っていそうな書物というと、「今鏡」「扶桑略記」「水左記」「帥記」「江記」「為房卿記」「時範記」あたりでしょうか?原資料は地方ではまずお目にかかれないので、東京大学史料編纂所から出ている「史料綜覧第二」のお世話になりました。
調べてみると承暦4年11月1日(ユリウス暦1080年12月14日・グレゴリオ暦1080年12月20日)に「日食」の記述がありました。(史料綜覧では「月食」と書かれていたのですが、前の月の15・16日にも「月食」の記述があるので、日数から考えて日食ではないでしょうか?)
「物の怪」や「怨霊」が普通に信じられていた時代です。災害や戦乱の記録を期待していたのですが、今回使用した史料には、同年6月の大雨と7月の地震が載っていました。翌年は災害等の記録はないようです。三ヶ月後に「承暦」から「永保」に改元しますが、日食の為ではなく「辛酉革命」によるもののようです。こじ付ければ、永保3年「後三年の役」の前兆だったという事で。
記録を書いたのは日食の何たるかを知っている貴族たちな訳で、一般民衆は物の怪か怨霊の仕業とでも思ったのではないでしょうか。
寿永2年閏10月1日(ユリウス暦1183年11月17日、グレゴリオ暦1183年11月24日)の源平合戦(水島の合戦)のさなかにあった金環食では、日食のことを知らない木曽義仲軍が大混乱に陥って敗走してしまうという記録があります。
100年後でもこれだけ慌てているわけで、当時国内の広い範囲で金環食もしくは部分食が見られたという事は、それだけ多くの民衆が慌てふためいたのではないでしょうか。そんな史料が見たかったですね。
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