玖島城武家屋敷5-外浦小路
大村藩初代藩主大村喜前が、玖島城を築いた時にできた五つの武家屋敷のうちの一つです。
玖島城大手口から大村城南高校が建つ丘を越えて南下する小路で、長さ約679m、12戸の屋敷がありました。
元は外海(そとめ)地方(西彼杵半島の五島灘側)の武士を住まわせていたことから、この名があります。大正12年(1923)、師範学校の建設により古い通りや屋敷はほとんど残っていません。
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大村藩初代藩主大村喜前が、玖島城を築いた時にできた五つの武家屋敷のうちの一つです。
玖島城大手口から大村城南高校が建つ丘を越えて南下する小路で、長さ約679m、12戸の屋敷がありました。
元は外海(そとめ)地方(西彼杵半島の五島灘側)の武士を住まわせていたことから、この名があります。大正12年(1923)、師範学校の建設により古い通りや屋敷はほとんど残っていません。
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大村藩初代藩主大村喜前が、玖島城を築いた時にできた五つの武家屋敷のうちの一つです。
藩主の側近くに仕える小姓が住んでいた場所で、長さ約632m、14戸がありました。昔の面影を一番残している場所・・・らしいのですが、もう少し下から撮影すべきでした(汗)
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大村藩初代藩主大村喜前が、玖島城を築いた時にできた五つの武家屋敷のうちの一つです。
玖島城大手口から国道を渡って、JR大村線の高架をくぐり愛宕神社入り口付近までの約686mの間が本小路と呼ばれています。現在の大村小学校辺りに九州最古の藩校「五教館」をはじめ、上級家臣の屋敷が並んでいました。幕末の頃には14戸あったようですが、今では面影がありません。
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市役所前バス停から歩くこと5分、草場小路と尾根を挟んで反対側の武家屋敷です。長さ約1,050m、37戸の屋敷があったそうです。写真の石垣の立派な屋敷は、大村藩家老浅田家の屋敷跡です。ほかにも上級武士の屋敷が多かったとか。
大村藩初代藩主大村喜前が、玖島城を築いた時にできた五つの武家屋敷のうちの一つです。
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裁判所前バス停を下車して5分、旧長崎街道脇の護国神社からお城の方角に伸びる武家屋敷で、大村藩初代藩主大村喜前が、玖島城を築いた時にできた五つの武家屋敷のうちの一つです。長さ約260m、5戸の屋敷や円融寺がありました。大村地方独特の「五色塀」が残っています。この塀は県の「まちづくり景観資産」にも選ばれています。写真左手奥には、カギ型の道路も残っていて、如何にも「城下町」といった趣です。
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