日野江城跡-島原の戦国大名有馬氏の居城
14世紀に築かれた城で、江戸時代の初めまで有馬氏の居城でした。東の大手川、西の浦口川に挟まれた丘陵地にあります。国指定史跡。
14世紀に築かれた城で、江戸時代の初めまで有馬氏の居城でした。東の大手川、西の浦口川に挟まれた丘陵地にあります。国指定史跡。
元の名前は「志自岐原(しじきはら)城」といって、日野江城を本城とする有馬氏の支城でした。
島原半島南端、口之津港を開港したのは永禄5年(1562)のことでした。
去年大雨で崩落した島原城跡本丸の石垣を
大村市鈴田地区にある鈴田牢は、元和3年(1617)7月から元和8年(1622)9月まで、長崎奉行所の捕えられたキリシタン宣教師や信者が入れられていました。キリシタンのための牢だったと云います。広さ26平方メートルの小屋に多い時で33人もの人が入っていた。
江戸時代の初期、元和8年8月5日(1622年9月10日)にあった「元和の大殉教」の時も、多くのキリシタンが入れられていました。
写真右にあるのが牢屋跡です。奥行き5.3m、間口3.5mで、周囲には二重に柵が設けられ、扉には二重の鍵がかけられていた。宣教師が残した記録によると、鳥かごのようであったと。
近くによって見ました。擬木で囲った範囲が牢屋の広さだとか。確かに狭い。真中にある台は、牢屋跡を復元するにあたり、祈りをささげる場として設置された祭壇です。
鈴田牢は元和の大殉教の後しばらくして、大村の御城下に移転します。
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長崎市内、日見トンネルの東口に小さな公園があるのが以前から気になっていたので、行ってみた。
「西の箱根」と称された日見峠の中腹、「梨子の木茶屋跡」だとか。標柱はあるのですが、説明板はありません。(写っているのは、日見トンネルの説明板です(汗) 日見トンネルの話はまた後日)
手前から右手に伸びるのが旧国道34号、日見トンネルの東口があります。奥の坂道が旧長崎街道です。車両は通れません。
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長崎街道日見峠の中腹に、長崎県指定有形文化財芒塚句碑があります。
向井去来は長崎の人で、8歳で父と京の都へ移住。30歳代半ばで松尾芭蕉の門人になり、蕉門十哲の一人と称されます。元禄2年(1689)に一時帰郷し、長崎に蕉門俳諧を伝えました。
正面の句碑は、去来が長崎を離れる時、この地まで見送りに来た人たちに対して詠んだ句で「君が手もまじるなるべし花薄 去来」、裏面に天保4年(1784)に長崎の俳人達が建立したことが刻まれています。芒塚の名前の由来は去来の句から来てるんですね。
左側の碑は、去来の紹介や官氏が刻まれています。また、右側の碑は、安政3年(1856)に建立された去来の顕彰碑だとか。
でも、句碑までは車で行けます(笑)
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旧長崎街道矢上宿から永昌宿(諌早)に向かう途中に、立派な藤棚があります。
ここは、街道を通る旅人たちが休憩をとった茶屋でした。今年、花が咲くころを見計らって行ってみました。
こちらのお宅は、郷土人形として有名な古賀人形を制作していることで知られる小川家です。
この古賀人形は、長崎県指定伝統工芸品で、京都の伏見人形、仙台の堤人形とともに日本三大土人形の一つになっています。人形の種類としては、お国柄を反映して中国やオランダなど外人さんを扱ったものも見受けられます。
元々小川家の3代目が農業の傍ら神仏用の土器を作っていましたが、晩年に小型の人形を作るようになったのが発祥だとか(現地説明板より)。明治ごろは複数の家で作っていたようですが、今はここ1軒だけだとか。
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旧大村藩領古賀村、長崎街道から少し入ったところに国指定重要文化財「旧本田家住宅」があります。県内最古の農家住宅の一つで、17世紀末~18世紀中ごろに建築されたと云います。
本屋根だけでなく下屋も萱ぶきになっているのは珍しいです。間取りは囲炉裏の間・座敷・納戸の3部屋と土間からできています。
屋敷の側まで車で行けないこともないのですが、道が細くてハラハラします。
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