肥前高来郡守山城址
雲仙市吾妻町の国道251号線を走っていると、「守山城跡公園」の案内板があったので、行ってみた。
雲仙市吾妻町の国道251号線を走っていると、「守山城跡公園」の案内板があったので、行ってみた。
天文19年(1550)、ポルトガル船が県内で最初に平戸に入港し、南蛮貿易がはじまります。
長崎県北部、伊万里湾を塞ぐように鎮座しているのが鷹島。数年前隣の佐賀県側から橋が架けられたので、簡単に行けるようになった。
鷹島と云えば元寇の遺跡として知られており、平成24年3月に海底遺跡の一部が「鷹島神崎遺跡」として国の史跡になっている。指定1周年を機に訪れてみた。
下の写真湾の入り口左手あたりが、沈没船が見つかった場所。
写真は資料館入口の展望台から撮っていますが、ここにある望遠鏡、ただの望遠鏡ではありません。覗くと、実際の風景に重ねる形で、元の軍船が集結している様子と、その船が嵐で難破する様子が描かれています。
傍には1988年、モンゴルとの文化親善交流を記念したタイムカプセルが埋められています。取り出すのは5年後の2018年だとか。
で、こちらの資料館、当然メインは元寇関連のコーナーです。元軍が攻めてきた様子などを、昔風の絵で紹介していたりします。隣の埋蔵文化財センターでは、保存処理した船の錨など、見学できます。
ついでにモンゴル村にも行ってみた。無料で入れる「モンゴル生活館」を見学。鷹島でも蒙古軍による被害が大きかったにもかかわらず、文化親善交流と互いの友好を深めるため「モンゴル村」を造ったという。未来永劫目の敵にすることは誰にでもできるが、仲良くなるなど誰にでも出来ることでは無いのでは?
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日本最初のキリシタン大名大村純忠が開港した横瀬浦。長崎県西海市の横瀬浦に「南蛮船来航の地」の石碑があり、県の指定文化財になっています。戦国時代大村領で最初にポルトガル船が着いた場所です。佐世保湾に入口にあります。
永禄4年(1561)平戸でポルトガル人殺害事件が発生。この事件の発端は、取引上のトラブルでした。この争いが大きくなってポルトガル人の総司令官まで応援に駆け付ける騒ぎとなります。ここで平戸の領主松浦氏の家来たちが総司令官および13名のポルトガル人を殺害するに及びます。事件現場が平戸「七郎宮」の門前だったので「宮の前事件」と呼びます。この事件について領主松浦隆信が誠意ある態度をとらなかったとして、キリスト教宣教師たちは平戸に代わる新たな貿易港を探していました。
そこで目を付けたのが大村領の横瀬浦でした。横瀬浦は永禄5年に南蛮貿易港として開港します。大村純忠が洗礼を受け、日本初のキリシタン大名になったのもここでした。ルイス・フロイス神父がはじめて日本の土を踏んだのもここでした。
ところがその1年後、このことを快く思わない義理の弟後藤貴明(たかあきら)等によって焼き討ちされてしまいます。
ちなみにこの弟、実は大村純前(すみあき)の実子です。…で、島原の有馬氏から純前の養子に入った純忠のせいで、佐賀武雄の後藤氏に養子に出されました。貴明自身このことに大そう恨みを持っているようで、何度も大村領内に攻め込んでいます。ただ、純忠の母と純前は兄弟です。と云う事はいとこ同士なんですね。
その後、南蛮貿易港は福田を経て長崎に移ります。長崎の地名として有名な「丸山」とその入口思案橋跡がここにもあります。・・・というか、ここが発祥です。横瀬浦がそのまま繁栄していたら、江戸時代ここに出島が出来て、現在では県庁所在地になっていたかも知れません。
写真中央、カーブミラーのある辺りが思案橋跡です。そこから上に登ると「丸山」と云う地名があります。もちろん花街がありました。
この橋を渡ると、教会があったと云います。背後の丘の上に天主堂跡の石碑がありますが、実際は丘の麓にあったようです。この場所は「寺屋敷」と云う地名があります。江戸時代大村藩の記録に、「清願寺」という寺跡の記述があり、また中世の石塔群がある事から、教会以前は仏教寺院だったと思われます。
海底に石敷きのようなものがあるのが気になります。
横瀬浦開港後に造られた大村純忠の屋敷「大村館」跡です。江戸時代には庄屋として使われたようです。
長崎甚左衛門純景居宅跡
肥前長崎の領主長崎氏の14代目。奥方は主君純忠の三女。永禄6年、純忠と共に洗礼を受けます。長崎が秀吉に取られてしまったことで家督を弟に譲り出奔、一時筑後柳川の田中氏に仕えますが、その後ここに戻ったとか。
横瀬浦の入口にある「八の子島」。島には十字架が建てられており、南蛮船はこの島を目印にしてやってきます。現在のものは1962年に復元されたとか。
江戸時代大村藩に記録に、「この島の頂上に塚らしきものがあり、村人の言い伝えでは唐人の墓だという。永禄年間に渡来した南蛮人の墓であろうか。不明。」とあります。思うに、十字架が建てられていた跡でしょう。
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前回紹介した伐株山。車で登れると云うので、登山口が判り辛かったが登ってみた。
山頂付近は芝生広場になっており、パラグライダー等を楽しむ人たちもいました。その広場の入口に説明板があります。
ここは、その昔「伐株山城」あるいは「玖珠城」と呼ばれた山城で、古くは南北朝時代に南朝方が立てこもったと云う記録もあるようです。また戦国時代には、島津軍の侵攻に対して玖珠郡衆が籠城して戦ったそうな。この城は周囲を崖に囲まれた天然の要害で、難攻不落であったようです。
今でも広場のあちこちに、土塁のようなものがあるのですが、公園化されているためか、あまり「!」ときません(汗)。
またこの山頂から眺めるパノラマは玖珠盆地を一望でき、素晴らしいです。
中世から長崎県中央部、肥前の国彼杵郡を領し、明治維新までそこを動かなかった「大村氏」、その大村氏について、「大村氏の先祖は藤原純友である」、江戸時代から長い間、そう信じられていました。
ところが昭和32年大村水害の折、古城跡の崖崩れで、一つの五輪塔地輪が発見されます。幅55cm、高さ25cmの滑石で、正面に「中庵 大永三年癸未七月十二日孝子敬白」、側面に「平朝臣前勢州太守純伊」とあり、室町時代後期の様式を備えています。大村氏が実は平氏である根拠の一つとしてよく取り上げられます。江戸時代の当事者はそれを知りえなかったのではないかと考えられました。
(大村市立史料館特別展パンフレットより)
しかし、その説に一石を投じる資料が、平成20年佐賀市内の寺院で見つかります。見つかったのは「大般若波羅蜜多経」。この末尾の署名に、「延徳四年壬子三月十五日大村民部大輔藤原純治」とあります。元は大村市松原にある八幡宮に寄進されていたものです。
純治が純伊の父であることは間違いがないようで、その純治は藤原姓を名乗っていたと云う事のようです。郷土史家の先生によると、その頃の「姓」は夫々好き勝手に名乗っていたようで、親子で「姓」が違うのは珍しくないとか。
江戸時代には、純伊が平氏を名乗っていたとされる史料が失われており、その父純治が藤原氏を名乗っていたと云う史料あるいは伝承だけが残って、長いこと大村氏は藤原姓であると信じられてきたようです。
今後の研究が待たれるところですが、「実はどちらでもないのではないか」と突っ込みたくもなります(笑)。
大村扇状地の南のはずれ、現在の市中心部付近にその古城はあります。
大村家の史料によると、天慶4年(941)「天慶の乱」で討たれた藤原純友の孫の直澄が、後に罪を許され、朝廷より肥前の国彼杵・高来・藤津の3郡を賜ります。正暦5年(994)に大村に下向し、久原城に入って大村氏を名乗ったと伝えられています。その後15代純治(すみはる)の頃、大村扇状地の北のはずれ、好武(よしたけ)城に移ったと云われています。
しかし最近の研究では、大村氏は元々藤津郡の平姓大村氏であったのが、戦国時代初期に藤津を追われて彼杵に入った、という説が有力です。
だったら、ここは何なんだ?
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東彼杵町里郷江の串川の左岸、国道と旧長崎街道に挟まれた場所に江串三郎の墓と伝えられている「入道塚」があります。観音堂や中世の石塔、江戸初期の五輪塔などが祀られています。
大正14年の記録に、明治の初期に塚が壊されたときに人骨と刀片2個、高麗焼といわれる陶器(おそらく6世紀の須恵器?)が出土し、工事が中止になったとあります。壊される前は今の3倍ほどの大きさがあったようで、元々は古墳であったと考えられています。
元弘3年(1333)3月14日江串三郎が尊良親王を奉じて挙兵、近隣の豪族に参加を呼びかけます。ところが3月20日には鎮西探題からの討伐軍が来襲します。結果的に思うように兵が集まらず敗北してしまいます。その2ヶ月後の5月25日に鎮西探題が滅び、翌26日尊良親王は大宰府に姿を表します。
少し遡って3月5日、幕府軍が楠木正成の千早城攻略に失敗し退却。3月12日長門探題が四国の宮方に敗北するなど、日に日に天皇方に有利に展開します。ところが、3月5日の情勢が九州に伝わるのが3月20日のことで、江串三郎が挙兵したころはまだ幕府方優勢という空気だったと考えられます。3月24日には江串一族の首、捕虜が博多に到着するも、鎮西探題にしても雲行きが怪しく感じられ始め、尊良親王や江串三郎の捜索どころではなかったようです。
上方の情報がもう少し早く九州に伝わっていらば、また違った展開になった事でしょう。不運としか言いようがありません。
ちなみに江串三郎の挙兵についての史料は『博多日記』だけだとか。この日記は博多にいた良覚というお坊さんが、当時の九州・四国の動向を記したもので、年号が「正慶」なので武家方の記録です。元々加賀前田家に所蔵されていたもので、明治時代になって世に出たといいます。
前回紹介した串島城跡の南を流れる「江の串川」を1kmほど遡ると、「大樽の滝」があります。この滝は5段になっており、下から2段目左岸に「奥の院」と呼ばれる洞窟があるらしい。その昔江串三郎が尊良親王を奉じて挙兵した時に、宮様が居られた場所であると云い伝えられています。
この場所は海岸線から近いにも関わらず、海岸からは見えない位置にあります。隠れ場所としては適地のようです。
また昔この辺りにあった「エブク寺」の修験者たちの修練場であったともいわれています。長崎と佐賀の県境にある多良山系にはその昔修験者たちがたくさんいた様で、親王が挙兵に失敗してその後大宰府に姿を現すまでの約2カ月の間、彼らの協力のもと身を隠していたとされています。
洞窟を確認したかったのですが、周囲にイノシシ除けの柵が巡っていて近づけませんでした(汗)。
現在この場所は「河川公園として整備されています。以前に比べて訪れやすくなっています。
次回「江串三郎入道塚-伝江串三郎の墓」
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