大野台支石墓群ー稲作農業のさきがけとなった人々の墓地
佐世保市鹿町町にある国の史跡、大野台支石墓群を訪ねてみました。
佐世保市鹿町町にある国の史跡、大野台支石墓群を訪ねてみました。
平成26年2月5日付の新聞記事を紹介します。
今年、西暦2013年は皇紀2673年。特に切りのいい数字でもなく、もちろん建国記念日でもない。なのに何故か、ふと気になった。強いて挙げれば、今から10年前の2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループが、弥生時代の開始を紀元前1000年ごろまで繰り上げる説を発表したことだろうか。
「弥生時代の始まりはいつなのか?」
従来は紀元前3世紀ごろだったはず。
皇紀元年、紀元前660年と云えば、従来、未だ狩猟採集社会の縄文時代。そんな時代に「王様」がいたのだろうか。「王様」が出てくるのは、農耕社会の弥生時代以降では。ところが弥生時代の開始を紀元前10世紀にすると、紀元前7世紀に「王様」がいてもおかしくないことに?
説が発表されてから10年。試しにネット上を検索してみると、弥生時代の始まりを紀元前3世紀としているものが多い。
ならば、学校ではどうなのか。あいにく中学高校の教科書を見ることが出来ないので参考書を覗いてみた。すべてに目を通してないが、概ね紀元前4世紀のようだ。
紀元前10世紀は、まだ定説にはなってないようです。でも、いつの間にか100年遡っている(汗)
紀元前4世紀が定説と云う事か?
20年ほど前、ヨーロッパアルプスで発見された「アイスマン」の最新情報が放映された。結構面白かった。
時代は5,300年前なので、日本では縄文時代前期。世界4大文明も最初の頃。どんな生活をしていたんでしょうねえ。今回の調査では、アイスマンを完全解凍するとか。「解凍して大丈夫?」と思いつつ見てました(^-^;。
○グルメで、ファッションセンスあり?
胃の内容物から山羊の仲間をはじめとする動物の肉、さらに既にパンがあったことが判った。また着けていた衣類からファッションセンスがうかがえるとか。
古代人は、その日一日を生きるのに精いっぱいだったわけではなかったようです。
縄文人のイメージが変わってきたのも20年ぐらい前でしたか?文明発祥の地以外の地域の住民も、結構いい暮らしをしていたと云う事が世界史規模でうかがえるかも。
○鍼灸治療の痕跡?
アイスマンの体には、服で隠れた場所に幾つかの刺青があった。これが鍼灸治療の腰痛に効くツボの位置を示したものだとか。レントゲンでも腰を患っていたことは確かなようです。
中国で鍼灸治療が始まるよりはるか昔ですねえ。
○銅の斧
アイスマンが持っていた銅製の斧。純度約99%は、この地域で銅器が作られ始めたとされる時期より1,000年も古いとか。
番組では簡単に流していたようですが、銅の精錬技術の伝播は気になります。
交易によって持ち込まれた可能性を考慮してなかったように思う。
○死因
レントゲンで調べると、背後から矢が刺さっている。また腸内の花粉から山を登ったり下りたりしていたことがうかがえるとか。これだけなら狩りの途中で、仲間の射た矢が誤って刺さり死んだ事故として処理されそうなものです。アイスマンの場合、顔面の殴られたような傷と奇妙な姿勢から殺されたと推測されたようだ。
5,300年前の殺人事件。動機は何だったんでしょうね。気になります。
アイスマンは再び冷凍保存されるとか。未来の研究者が、進んだ技術で新たな発見をすることを期待したい。「「殺人事件」の解釈が実は間違っていた」なんてことになったら面白そうだ。
南島原市深江町の「権現脇遺跡」で、縄文時代前期から中期にかけて地層から、眉山噴火に伴う倒木痕が複数見つかったと発表があった。
遺跡の範囲は、島原市と南島原市にまたがり、雲仙岳噴火の火砕流で焼失した大野木場小学校の山手に広がっています。
眉山は雲仙岳の東山麓、島原市街地の背後にそびえています。寛政4年(1792)の山体崩壊では、多くの土砂が有明海に流れ込み、対岸の肥後ノ国に津波の被害をもたらしました。「島原大変肥後迷惑」という言葉の元になった山です。
今回発見された倒木痕は、火砕流によく似た「火砕サージ」により根こそぎなぎ倒されたものだとか。地元の新聞では、倒木痕ができるメカニズムまで図入りで解説されていました。
眉山が噴火したと云う文献記録はないようですが、それ自体火山だったんですねえ。
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長崎県壱岐市にある国の特別史跡「原の辻遺跡」の出土品を、国の重要文化財に指定するよう答申があった。
出土品の内訳は土器・土製品、木器・木製品、石器・石製品、ガラス製品、金属製品、骨格製品など1,670点。当時の大陸との交易や交流を示す資料として学術的価値が高いと評価されたようです。
原の辻遺跡と云えば、魏志倭人伝に出てくるクニのうち「一支国」の王都とされている場所です。「答申」と云う事は、「指定」までもうしばらくかかるようですが、今回指定を受ける出土品も早く特別重要文化財(国宝)に指定されることを、一県民として願っております。
(追記)
壱岐には何度か行ったことがありますが、ブログを始めてからはまだ行く暇が出来ません。今年こそは行きたいと思う今日この頃です。
世界最古の土器「豆粒紋土器」が出土した佐世保市泉福寺洞穴遺跡に行ってきました。周りは宅地開発されていますが、この周辺だけは緑に囲まれています。
この遺跡は昭和44年に発見され、翌45年から54年にかけて調査されています。旧石器時代から縄文時代、弥生時代以降の文化層が確認されています。
この遺跡の特徴は、細石器を伴う4段階の土器文化が発見されたこと。その中で一番古いのが豆粒紋土器で、科学的な年代測定で12,000年前と出ています。ちなみにそれまでは、福井洞穴の調査結果から細石器を伴う土器文化は2段階と考えられていました。
古い順に並べると
1.ナイフ形石器文化
2.細石器文化
3.細石器+豆粒紋土器文化
4.細石器+隆線紋土器文化
5.細石器+爪形紋土器文化
6.細石器+押引紋土器文化
7.土器文化
こんな感じ。大まかに、1~2が旧石器時代、3~7が縄文時代、その内6までが縄文時代草創期と考えていいようです。
入口から徒歩で300m程の場所に、その洞穴はありました。駐車場が無いので、公共機関を利用しましょう。左の写真、カーブミラー脇の細い歩道を入ると、広場に出ます。歩道が広ければ、駐車場にできそうな場所です。そこから右の写真にある階段を登っていくと目的地です。
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今、佐世保市の島瀬美術センターに国史跡泉福寺洞穴 から出土した国の重要文化財「豆粒紋土器」が展示されています。復元されたレプリカは常設展示されていますが、本物はなかなか見ることができません。撮影禁止なので、お見せできないのが残念。一見の価値有りです。
泉福寺洞穴遺跡については、また後日。
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福井洞穴については2012.12.04にアップしていますが、その記事で触れた「重要な遺構」について発表されたので、見学に行ってみました。
(写真をクリックすると拡大します)
今回発見された「炉の跡」。約1万6千年~8千年前、旧石器人が火を焚いた後です。右の写真は、12月4日に載せたかった写真(汗)です。赤いところが焼けた石、黒いところが炭や焼けた土です。黒曜石の破片もありました。
この遺跡の住人は定住生活をしていたと云う事のようです。
「炉の跡」のさらに下に、「礫が集中した跡」が出てきました。外国の洞穴遺跡では、礫を床に敷き詰める事例があるそうですが、この国にはまだ発見例がありません。
はたして新発見の遺構なのか、自然のなせる業なのか?今後の研究が俟たれます。ちなみに左上の部分が少しくぼんでいるのは、落盤で巨石が落ちてきた跡だとか。
今回の調査は、50年前に掘った同じ場所を掘り返して、さらに掘り進むと云う方法をとっています。上層はかく乱層ですが、そこから50年前の調査で回収し忘れたと思われるものが出ています。
泉福寺洞穴の「豆粒紋土器」が出るまで、いちばん古いと云われた「隆起線紋土器」の小さな破片がありました。残念ながら、前回の採り忘れだとか。
会場では、50年前のノートや写真も展示されていました。岩宿遺跡を発見した相沢忠洋氏をはじめ著名な考古学者、後に考古学者になる少年まで多くの人が訪れています。
上は今回新たに見つかった遺物です。層ごとに整理されています。
哺乳類の骨だそうです。顕微鏡で観察するほどの小さな破片です。
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