川棚魚雷艇訓練所跡ー長崎県川棚町の「特攻殉国の碑」を訪ねる
長崎県川棚町、大村湾の一角に旧海軍の魚雷艇訓練所跡があります。
長崎県川棚町、大村湾の一角に旧海軍の魚雷艇訓練所跡があります。
長崎県東彼杵郡東彼杵町に、D51蒸気機関車の原寸大ダンボール模型が展示されているので行ってみた。
江戸時代、大村藩江の串村木場郷(現在の東彼杵町木場郷)に「本地寺」というお寺があります。そのお寺が最初に建立された場所へ行ってみました。
寛永18年(1641)、若狭国の日審上人が日蓮宗布教のため江の串村を訪れた時、木場郷の児玉久右衛門が日審上人に深く帰依し、慶安2年(1649)出家し「宗喜日悦」となります。刀や脇差を売って釈迦如来像を整え、ここ「庚申原」に庵を建てました。これが本地寺の起源とされています。
また、大村家の菩提寺である本経寺の日通上人は、江の串村にも寺の建立を祈願していたので、寛文9年(1669)京都本国寺の日運僧正のお許しを得て、併せて「本地寺」の寺号を賜った。この時、初代を日通上人の師日選とし、2代目を日通本人、3代目を宗喜日悦とします。
天和元年(1681)4代目日心上人は、大村藩に頼らず檀家さんの浄財だけで、現在地に寺を移したとされています。
跡地には昭和10年、35代井手寿峰上人達によって宝塔が建てられました。
後方の森の中に、現在の本地寺があります。
ちなみに、西日本旧石器研究の草分けとされる井手寿謙上人 はこちらの第36代ご住職でした。
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長崎県東彼杵町木場郷本地寺の第36代住職故井手寿謙氏は、アマチュアの考古学者としても知られていました。井手氏は学生の頃から独学で考古学を学び、地元周辺遺跡の表採活動を続けてこられました。中でも大村野岳遺跡で見つかる細石器が旧石器であることを「岩宿遺跡発見」より前に気づいていました。これらの資料は昭和34年、芹沢長介先生を通じて全国へ紹介されることとなり、さらに昭和46年、鈴木忠司先生の論文で野岳遺跡の細石器に「野岳・休場型」の名称が与えられます。
その井手氏を顕彰しようと、東彼杵町では標記の企画展を開催しています。
期間は平成24年12月20日までだそうです。場所は東彼杵町歴史民俗資料館です。
長崎街道彼杵宿本陣(現彼杵神社)脇に、日本近代公園の先駆者長岡安平の生家がありました。
安平は天保13年(1842)、大村藩彼杵村(現東彼杵町)で生まれました。幼少の頃より庭造りに興味を持ち、郷土の自然景観を師として独学で造園の研究をしたと伝えられます。そんな安平の転機となったのは、郷土の先輩楠本正隆との出会いでした。楠本正隆は「大村藩勤王同盟三十七士」に名を連ねる幕末の志士で、明治になってからは官僚、政治家として活躍した人物です。
安平は、明治5年(1872)正隆が新潟県令の時、日本最初の都市公園「白山公園」の設計に携わりました。その後正隆が東京府知事になると、明治11年に安平を東京府土木掛吏員に任命、芝公園を始めとする公園整備や街路樹植栽の任に当たらせています。
明治29年に手掛けた秋田市千秋公園の設計は全国で評判となり、各地から公園・庭園の設計依頼が殺到したとか。その後大正14年(1925)に亡くなるまで、公園41件、庭園25件の他、史跡・名勝・天然記念物の保存にも力を注ぎました。中でも秋田県旧池田氏庭園は平成16年、国の名勝に指定されています。
現在地元の歴史民俗資料館で、長岡安平について紹介されています。
この場所は、大正6年から銀行の用地として使用されています。詳細はコチラ。
より大きな地図で 近代庭園の先駆者、長岡安平生家跡 を表示
東彼杵町里郷江の串川の左岸、国道と旧長崎街道に挟まれた場所に江串三郎の墓と伝えられている「入道塚」があります。観音堂や中世の石塔、江戸初期の五輪塔などが祀られています。
大正14年の記録に、明治の初期に塚が壊されたときに人骨と刀片2個、高麗焼といわれる陶器(おそらく6世紀の須恵器?)が出土し、工事が中止になったとあります。壊される前は今の3倍ほどの大きさがあったようで、元々は古墳であったと考えられています。
元弘3年(1333)3月14日江串三郎が尊良親王を奉じて挙兵、近隣の豪族に参加を呼びかけます。ところが3月20日には鎮西探題からの討伐軍が来襲します。結果的に思うように兵が集まらず敗北してしまいます。その2ヶ月後の5月25日に鎮西探題が滅び、翌26日尊良親王は大宰府に姿を表します。
少し遡って3月5日、幕府軍が楠木正成の千早城攻略に失敗し退却。3月12日長門探題が四国の宮方に敗北するなど、日に日に天皇方に有利に展開します。ところが、3月5日の情勢が九州に伝わるのが3月20日のことで、江串三郎が挙兵したころはまだ幕府方優勢という空気だったと考えられます。3月24日には江串一族の首、捕虜が博多に到着するも、鎮西探題にしても雲行きが怪しく感じられ始め、尊良親王や江串三郎の捜索どころではなかったようです。
上方の情報がもう少し早く九州に伝わっていらば、また違った展開になった事でしょう。不運としか言いようがありません。
ちなみに江串三郎の挙兵についての史料は『博多日記』だけだとか。この日記は博多にいた良覚というお坊さんが、当時の九州・四国の動向を記したもので、年号が「正慶」なので武家方の記録です。元々加賀前田家に所蔵されていたもので、明治時代になって世に出たといいます。
前回紹介した串島城跡の南を流れる「江の串川」を1kmほど遡ると、「大樽の滝」があります。この滝は5段になっており、下から2段目左岸に「奥の院」と呼ばれる洞窟があるらしい。その昔江串三郎が尊良親王を奉じて挙兵した時に、宮様が居られた場所であると云い伝えられています。
この場所は海岸線から近いにも関わらず、海岸からは見えない位置にあります。隠れ場所としては適地のようです。
また昔この辺りにあった「エブク寺」の修験者たちの修練場であったともいわれています。長崎と佐賀の県境にある多良山系にはその昔修験者たちがたくさんいた様で、親王が挙兵に失敗してその後大宰府に姿を現すまでの約2カ月の間、彼らの協力のもと身を隠していたとされています。
洞窟を確認したかったのですが、周囲にイノシシ除けの柵が巡っていて近づけませんでした(汗)。
現在この場所は「河川公園として整備されています。以前に比べて訪れやすくなっています。
次回「江串三郎入道塚-伝江串三郎の墓」
長崎自動車道東彼杵インターから国道34号線を大村方面へ約5km、東彼杵町里地区に、大村湾に突き出た小さな岬があります。元弘3年(1333)、地元の豪族江串三郎入道が討幕の兵を挙げた串島城跡です。緩やかな丘陵上には「城屋敷」という地名が残っていますが遺構等は確認できません。城というより砦に近かったのではないでしょうか。
元弘3年3月12日、肥後の菊池武時が鎮西探題を襲撃する事件が起こります。この事件に報復すべく準備を進めていた鎮西探題のもとに3月17日、肥前の国彼杵郡から早馬が到着し「3月14日に江串三郎が尊良親王を奉じて挙兵した」という。
親王が居られる場所が本営と見た探題は、肥後の菊池氏討伐を後回しにして、佐賀の高木氏・多久氏(前多久氏)、唐津の波多氏・値賀氏といった豪族を江串追討に向かわせます。
次回「大樽の滝-尊良親王縁の地」
原マルチノの像を見るため波佐見町の旧公民館を訪れると、そこに銅像はなく、代わりに一里塚跡の標柱が建っていました。
伊万里街道は長崎県川棚町の平戸街道から分岐し、ほぼ今の県道4号線に沿って佐賀県有田町に入ります。この県道4号線と1号線の交わる場所に一里塚はありました。ちなみに、1号線を東へ進むと、佐賀県の武雄市・嬉野市へ、西へ進むと佐世保市三川内にでます。
大村藩の記録『郷村記』では、川棚・波佐見間を「波佐見往還」、波佐見・有田間を「有田往還」としているようです。
波佐見町は佐世保市の三川内焼、有田町の有田焼と並ぶ焼き物(波佐見焼)の産地で、しかも三つの産地はお隣同士です。ここで作られた焼き物は伊万里街道を通って伊万里港へ運ばれ、そこから積み出されました。したがって、これらの産地を含む肥前の国で生産された磁器を「伊万里焼」といいます。
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