大野台支石墓群ー稲作農業のさきがけとなった人々の墓地
佐世保市鹿町町にある国の史跡、大野台支石墓群を訪ねてみました。
佐世保市鹿町町にある国の史跡、大野台支石墓群を訪ねてみました。
佐世保市宮津(大村湾岸)に位置する鬼塚古墳は、直径約16mの円墳である。この夏、暑い盛りに発掘調査をやっていると云うので、行ってみた。
埋葬施設は、石棺を石室の腰石に見立てて、その上に板石を積み上げ、横口を設けるもので東彼杵町のひさご塚古墳とよく似た造りをしている。ひさご塚古墳との違いは、横穴式石室として造られているところである。また、この古墳では被葬者を安置するスペースが区分けされている。
時期は5世紀中ごろから後半。ひさご塚古墳が5世紀前半から中ごろなので、鬼塚古墳の方が新しい。
被葬者は、この地方の豪族で、交易で力を蓄えたと考えられる。
副葬品として、青銅鏡や短甲等が出土している。青銅鏡は、ひさご塚古墳のもの似ているようだ。
下の写真では、土を突き固めて塚を造った様子が判る。元々斜面だった場所を一旦平坦にしてから古墳を造ったとか。
下の写真少し判り難いが、車が止まっている左手のミカン畑の中にある。
この古墳、埋葬施設が2層になっている可能性があるらしく、9月に掘り下げるらしい。
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世界最古の土器「豆粒紋土器」が出土した佐世保市泉福寺洞穴遺跡に行ってきました。周りは宅地開発されていますが、この周辺だけは緑に囲まれています。
この遺跡は昭和44年に発見され、翌45年から54年にかけて調査されています。旧石器時代から縄文時代、弥生時代以降の文化層が確認されています。
この遺跡の特徴は、細石器を伴う4段階の土器文化が発見されたこと。その中で一番古いのが豆粒紋土器で、科学的な年代測定で12,000年前と出ています。ちなみにそれまでは、福井洞穴の調査結果から細石器を伴う土器文化は2段階と考えられていました。
古い順に並べると
1.ナイフ形石器文化
2.細石器文化
3.細石器+豆粒紋土器文化
4.細石器+隆線紋土器文化
5.細石器+爪形紋土器文化
6.細石器+押引紋土器文化
7.土器文化
こんな感じ。大まかに、1~2が旧石器時代、3~7が縄文時代、その内6までが縄文時代草創期と考えていいようです。
入口から徒歩で300m程の場所に、その洞穴はありました。駐車場が無いので、公共機関を利用しましょう。左の写真、カーブミラー脇の細い歩道を入ると、広場に出ます。歩道が広ければ、駐車場にできそうな場所です。そこから右の写真にある階段を登っていくと目的地です。
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今、佐世保市の島瀬美術センターに国史跡泉福寺洞穴 から出土した国の重要文化財「豆粒紋土器」が展示されています。復元されたレプリカは常設展示されていますが、本物はなかなか見ることができません。撮影禁止なので、お見せできないのが残念。一見の価値有りです。
泉福寺洞穴遺跡については、また後日。
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福井洞穴については2012.12.04にアップしていますが、その記事で触れた「重要な遺構」について発表されたので、見学に行ってみました。
(写真をクリックすると拡大します)
今回発見された「炉の跡」。約1万6千年~8千年前、旧石器人が火を焚いた後です。右の写真は、12月4日に載せたかった写真(汗)です。赤いところが焼けた石、黒いところが炭や焼けた土です。黒曜石の破片もありました。
この遺跡の住人は定住生活をしていたと云う事のようです。
「炉の跡」のさらに下に、「礫が集中した跡」が出てきました。外国の洞穴遺跡では、礫を床に敷き詰める事例があるそうですが、この国にはまだ発見例がありません。
はたして新発見の遺構なのか、自然のなせる業なのか?今後の研究が俟たれます。ちなみに左上の部分が少しくぼんでいるのは、落盤で巨石が落ちてきた跡だとか。
今回の調査は、50年前に掘った同じ場所を掘り返して、さらに掘り進むと云う方法をとっています。上層はかく乱層ですが、そこから50年前の調査で回収し忘れたと思われるものが出ています。
泉福寺洞穴の「豆粒紋土器」が出るまで、いちばん古いと云われた「隆起線紋土器」の小さな破片がありました。残念ながら、前回の採り忘れだとか。
会場では、50年前のノートや写真も展示されていました。岩宿遺跡を発見した相沢忠洋氏をはじめ著名な考古学者、後に考古学者になる少年まで多くの人が訪れています。
上は今回新たに見つかった遺物です。層ごとに整理されています。
哺乳類の骨だそうです。顕微鏡で観察するほどの小さな破片です。
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佐世保市大野地区、県立佐世保工業高校正面の丘の上に、その城跡はあります。中腹の「大智庵長名寺」まではなんとか車で行けます。そこから長い階段を上っていくと本丸跡があり、城跡公園として整備されています。
宗家松浦氏は、はじめ相浦の武辺城を居城としていましたが、延徳2年(1490)第14代定(さだむ)の時、交通の要衝であったこの地に城を築いたといわれます。
しかし8年後の明応7年(1498)、平戸を拠点に勢力を伸ばしていた平戸松浦氏の夜襲を受け一夜で落城。宗家松浦氏15代政(まさし)は討ち死に、子の幸松丸は平戸に連れて行かれます。幸松丸はその後旧臣に救出され、宗家16代親(ちかし)として旧領を回復、飯盛城を築きます。宗家松浦氏と平戸松浦氏の対立はその後も続き、最終的に平戸松浦氏が宗家松浦氏を滅ぼすのですが、親は戦死者の菩提を弔う事業を多く行っており、この公園にある「松浦丹後守政の墓」もこのときに建立されたもののようです。
現在佐世保市指定文化財になっているこの墓は、元々別の場所にあったものを戦前に移したものであるとか。安山岩の宝きょう印塔で、佐賀県側で製作されたもののようです。ちなみにここからひと山越えれば佐賀県伊万里市に出ることが出来ます。
長崎県佐世保市、大村湾の入り口を塞ぐ形で針尾島が鎮座しています。大村湾と外海の佐世保湾を結ぶ水路は、日本三大急潮の一つ「針尾(伊ノ浦)瀬戸」と「早岐瀬戸」だけです。ちなみに針尾瀬戸には建設当時東洋一といわれた西海橋と、「釣りバカ日誌16」で「ハマちゃん」の勤め先「鈴木建設」が建設した(*^-^)新西海橋があります。
今回紹介する平戸八景「潮目」は早岐瀬戸にあります。この瀬戸は全長11kmで幅員が狭く平均で125m程度しかありません。なので、私が幼少の頃は「川」だと思っていました(^-^; ただ昔はもう少し幅があったらしく、早岐瀬戸沿岸の平地はほとんど江戸時代の干拓事業で出来たものだとか。ちなみにこの瀬戸の大村湾側出口付近に「ハウステンボス」があります。
潮目は瀬戸のもっとも狭まった場所にあります。ここは針尾島と本土を結ぶ「観潮橋」があり、その名の通り潮の干満に伴う急流を見ることが出来ます。
上は佐世保湾から大村湾に流れる様子ですが、いまいち迫力に欠けるので、日を改めて撮ってみました。
今度は大村湾から佐世保湾に流れる様子です。カヌー愛好者に人気のある場所のようです。近くで見ていると引き込まれそうになります(^-^;
奈良時代の「肥前国風土記」に
速来門(はやきのと)は郡(彼杵郡)の西北にあり。この門の潮の来るは、東に潮落ちれば西にわき昇る。わく響きは雷の音のようである。よって速来門という。
とあり、早岐瀬戸のことではないかと云われています。観潮橋のたもとには速来門を示す標柱も建てられています。
ただ、速来門は現在の針尾瀬戸ではないかという説もあります。日本三大急潮の一つでもありますので。
場所は、JR早岐駅から歩いて10分程度です。
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