大村純忠が開いた南蛮船来航の地-横瀬浦をさるく

日本最初のキリシタン大名大村純忠が開港した横瀬浦。長崎県西海市の横瀬浦に「南蛮船来航の地」の石碑があり、県の指定文化財になっています。戦国時代大村領で最初にポルトガル船が着いた場所です。佐世保湾に入口にあります。
永禄4年(1561)平戸でポルトガル人殺害事件が発生。この事件の発端は、取引上のトラブルでした。この争いが大きくなってポルトガル人の総司令官まで応援に駆け付ける騒ぎとなります。ここで平戸の領主松浦氏の家来たちが総司令官および13名のポルトガル人を殺害するに及びます。事件現場が平戸「七郎宮」の門前だったので「宮の前事件」と呼びます。この事件について領主松浦隆信が誠意ある態度をとらなかったとして、キリスト教宣教師たちは平戸に代わる新たな貿易港を探していました。
そこで目を付けたのが大村領の横瀬浦でした。横瀬浦は永禄5年に南蛮貿易港として開港します。大村純忠が洗礼を受け、日本初のキリシタン大名になったのもここでした。ルイス・フロイス神父がはじめて日本の土を踏んだのもここでした。
ところがその1年後、このことを快く思わない義理の弟後藤貴明(たかあきら)等によって焼き討ちされてしまいます。
ちなみにこの弟、実は大村純前(すみあき)の実子です。…で、島原の有馬氏から純前の養子に入った純忠のせいで、佐賀武雄の後藤氏に養子に出されました。貴明自身このことに大そう恨みを持っているようで、何度も大村領内に攻め込んでいます。ただ、純忠の母と純前は兄弟です。と云う事はいとこ同士なんですね。
その後、南蛮貿易港は福田を経て長崎に移ります。長崎の地名として有名な「丸山」とその入口思案橋跡がここにもあります。・・・というか、ここが発祥です。横瀬浦がそのまま繁栄していたら、江戸時代ここに出島が出来て、現在では県庁所在地になっていたかも知れません。

写真中央、カーブミラーのある辺りが思案橋跡です。そこから上に登ると「丸山」と云う地名があります。もちろん花街がありました。

この橋を渡ると、教会があったと云います。背後の丘の上に天主堂跡の石碑がありますが、実際は丘の麓にあったようです。この場所は「寺屋敷」と云う地名があります。江戸時代大村藩の記録に、「清願寺」という寺跡の記述があり、また中世の石塔群がある事から、教会以前は仏教寺院だったと思われます。
海底に石敷きのようなものがあるのが気になります。

横瀬浦開港後に造られた大村純忠の屋敷「大村館」跡です。江戸時代には庄屋として使われたようです。

長崎甚左衛門純景居宅跡
肥前長崎の領主長崎氏の14代目。奥方は主君純忠の三女。永禄6年、純忠と共に洗礼を受けます。長崎が秀吉に取られてしまったことで家督を弟に譲り出奔、一時筑後柳川の田中氏に仕えますが、その後ここに戻ったとか。

横瀬浦の入口にある「八の子島」。島には十字架が建てられており、南蛮船はこの島を目印にしてやってきます。現在のものは1962年に復元されたとか。
江戸時代大村藩に記録に、「この島の頂上に塚らしきものがあり、村人の言い伝えでは唐人の墓だという。永禄年間に渡来した南蛮人の墓であろうか。不明。」とあります。思うに、十字架が建てられていた跡でしょう。
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