弥生時代に火葬?-大村市竹松遺跡
平成26年2月5日付の新聞記事を紹介します。
平成26年2月5日付の新聞記事を紹介します。
大村市鈴田地区にある鈴田牢は、元和3年(1617)7月から元和8年(1622)9月まで、長崎奉行所の捕えられたキリシタン宣教師や信者が入れられていました。キリシタンのための牢だったと云います。広さ26平方メートルの小屋に多い時で33人もの人が入っていた。
江戸時代の初期、元和8年8月5日(1622年9月10日)にあった「元和の大殉教」の時も、多くのキリシタンが入れられていました。
写真右にあるのが牢屋跡です。奥行き5.3m、間口3.5mで、周囲には二重に柵が設けられ、扉には二重の鍵がかけられていた。宣教師が残した記録によると、鳥かごのようであったと。
近くによって見ました。擬木で囲った範囲が牢屋の広さだとか。確かに狭い。真中にある台は、牢屋跡を復元するにあたり、祈りをささげる場として設置された祭壇です。
鈴田牢は元和の大殉教の後しばらくして、大村の御城下に移転します。
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大村市竹松遺跡の「遺跡見学会」があったので、行ってきた。
期間は6月23日(日)・24日(月)・25日(火)の3日間。
(雨天決行です。)
前回紹介した「古代彼杵郡の港を示すと云う紡錘車」、残念ながら撮影禁止でした。新聞には載っているのにネ~。
ちなみに紡錘車は滑石製で、平安時代の10世紀後半から11世紀中ごろの遺物。また、それよりおよそ100年前の「墨書土器」も出土している。土師器の外側に人名と思われる文字が炭で書かれている。
他にも中国製の陶磁器や鏡なども出ている。おそらく、「彼杵郡の港」から荷揚げされたものでしょう。
10世紀と云えば、律令制が衰退しているころ。既に郡衙もその役割を終えているのでは。「彼杵郡衙」の所在地は諸説あるが、まだ決着がついたとは言えないようです。
昨年に引き続き発掘調査が行われている大村市竹松遺跡。古代彼杵(そのぎ)郡衙の存在を窺わせる文字資料が出土したと云うので、早速行ってみた。
10世紀ごろの紡錘車で、「都(つ)」「木(き)」のふた文字が刻まれていました。「都」は「港(津)」を意味し、「木」は「彼杵」を意味するとか。すぐ近くに郡川が流れており、その河口付近に港があったと推定されます。近くには条里遺構もあり、この辺り一帯の地名を「郡(こおり)」と呼ぶことから、昔から彼杵郡衙の推定地の一つとされてきました。
因みにもう一つの推定地は、ここから北に位置する東彼杵町彼杵地区です。こちらは、弥生時代から古墳時代にかけて「彼杵郡」の中心だったと考えられています。
但し調査は始まったばかりで、紡錘車も特定の遺構から出土したものではないとか。瓦なども出土していないようなので、ここに役所や港があったと云う事ではないようです。周辺の発掘調査から「郡地方」の集落の中心は国道34号線の海側と考えられています。
残念ながら写真は撮らせてもらえませんでした(汗)
月末に一般公開されるようです。
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今年のNHK大河ドラマが「八重の桜」なので、「八重」「桜」のキーワードから、大村市玖島城跡(大村公園)のオオムラザクラを見に行った。
中世から長崎県中央部、肥前の国彼杵郡を領し、明治維新までそこを動かなかった「大村氏」、その大村氏について、「大村氏の先祖は藤原純友である」、江戸時代から長い間、そう信じられていました。
ところが昭和32年大村水害の折、古城跡の崖崩れで、一つの五輪塔地輪が発見されます。幅55cm、高さ25cmの滑石で、正面に「中庵 大永三年癸未七月十二日孝子敬白」、側面に「平朝臣前勢州太守純伊」とあり、室町時代後期の様式を備えています。大村氏が実は平氏である根拠の一つとしてよく取り上げられます。江戸時代の当事者はそれを知りえなかったのではないかと考えられました。
(大村市立史料館特別展パンフレットより)
しかし、その説に一石を投じる資料が、平成20年佐賀市内の寺院で見つかります。見つかったのは「大般若波羅蜜多経」。この末尾の署名に、「延徳四年壬子三月十五日大村民部大輔藤原純治」とあります。元は大村市松原にある八幡宮に寄進されていたものです。
純治が純伊の父であることは間違いがないようで、その純治は藤原姓を名乗っていたと云う事のようです。郷土史家の先生によると、その頃の「姓」は夫々好き勝手に名乗っていたようで、親子で「姓」が違うのは珍しくないとか。
江戸時代には、純伊が平氏を名乗っていたとされる史料が失われており、その父純治が藤原氏を名乗っていたと云う史料あるいは伝承だけが残って、長いこと大村氏は藤原姓であると信じられてきたようです。
今後の研究が待たれるところですが、「実はどちらでもないのではないか」と突っ込みたくもなります(笑)。
大村扇状地の南のはずれ、現在の市中心部付近にその古城はあります。
大村家の史料によると、天慶4年(941)「天慶の乱」で討たれた藤原純友の孫の直澄が、後に罪を許され、朝廷より肥前の国彼杵・高来・藤津の3郡を賜ります。正暦5年(994)に大村に下向し、久原城に入って大村氏を名乗ったと伝えられています。その後15代純治(すみはる)の頃、大村扇状地の北のはずれ、好武(よしたけ)城に移ったと云われています。
しかし最近の研究では、大村氏は元々藤津郡の平姓大村氏であったのが、戦国時代初期に藤津を追われて彼杵に入った、という説が有力です。
だったら、ここは何なんだ?
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小姓小路の南、日向平小路に五色塀のあるお屋敷があります。説明板らしきものは見当たりません。県の「まちづくり景観資産」、大村市の「都市景観賞」に選ばれているようです。
この屋敷は、文政9年(1826)から中尾半兵衛の住まいでした。半兵衛は、文化10年(1813)伊能忠敬が大村藩を測量した時、その世話をしたと伝えられています。その子静摩は藩の要職を歴任、大村藩勤王同盟三十七士にも名を連ねています。
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以前紹介した円融寺跡(現護国神社)境内に、戊辰戦役戦没者23基の慰霊碑があります。
旧庭園との境界を成すように並んでいます。この中には、秋田刈和野の戦いで戦死した浜田謹吾少年の慰霊碑もあります。
当時の大村藩の活躍についてはこちら
大村藩と戊辰戦役(前編)-東征軍の派遣 2012.07.06
大村藩と戊辰戦役(後編)-北伐軍の秋田救援 2012.07.08
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