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カテゴリー「諌早市」の7件の記事

2013年9月19日 (木)

明治五大監獄の一つー旧長崎刑務所跡

諌早市の旧長崎刑務所跡は、明治の五大監獄の一つです。

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2012年12月30日 (日)

湯とり餅‐諌早地方の郷土料理

 つきたてのお餅をお湯を張った器に入れて、大根おろしとしょうゆで食べる。

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2012年11月15日 (木)

富川渓谷の五百羅漢‐災害犠牲者の冥福を祈る

 諌早市の中央を流れる本明川の上流に富川渓谷があります。その岸壁に五百羅漢が刻まれています。夏は涼を求めて訪れる人も多いのですが、人の少ない秋口に行ってみました。

 佐賀藩諌早領では、元禄12年(1699)の大洪水、翌年の大干害で飢えなどで苦しんだと云います。そのため諌早家第7代茂晴公は、本明川の水源である富川渓谷に五百羅漢を刻むことにしました。元禄14年からとりかかり、、宝永6年(1709)に完成します。

 県内随一の磨崖仏だとか。一体一体の大きさはあまり大きくありません。県指定の史跡です。

(クリックすると拡大します)

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 平成19年の調査では、510体が確認されているようです。ただ、向こう岸にある分については、どこにあるのかよく見えません。

 学生時代を国内の磨崖仏の9割が残る大分県で暮した身としては、浮彫ではなく線刻で、しかも時代の新しいものを「磨崖仏」というのは、「!」とこないところがあります(汗)。このタイプの磨崖仏が他県にもあったら知りたいですね。

より大きな地図で 富川渓谷の五百羅漢 を表示

2012年4月 3日 (火)

飯盛鬼塚古墳ー橘湾岸の首長墓

橘湾岸の国道251号線を車で走っていると、「飯盛鬼塚古墳」の案内板が目に止まります(といっても、案内板自体小さいので、見落とすかも)。この案内板から海側に車を走らせると畑地帯が広がっており、その一角、橘湾・天草灘を見下ろす標高100mほどの高台に古墳はありました。場所は諌早市飯盛町、国道から2km程入った所です。

6世紀後半に造られた横穴式石室の古墳で、墳丘は発見時すでに失われていたとか。現在周りの方が高くなっていますが、発見当時は古墳の方が高かったようです。

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埋葬施設は縦2.1m、横1.4m、高さは推定で2.5m程だとか。副葬品として、金環(耳飾り)、須恵器、鉄製農具が出土しています。

橘湾沿岸に同じ時期の古墳は少なく、6世紀ごろの首長墓と考えられています。

諌早市の史跡に指定されています。

2012年3月 6日 (火)

水晶観音駅跡(雲仙鉄道3)

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現在の国道に出た路線は、唐比(からこ)湿地公園を右に見ながら東に向かいます。途中水晶観音駅を通過しますが、実際の観音堂入口からはだいぶ手前にあります(水晶観音に伝わる伝承については、また後日)。しばらく行くと、右斜めに入る道があり、そこから海岸線に出ると浜駅の記念碑があります。

橘湾の断層は千々石から諌早の有喜(うき)まで続いていますが、なぜか唐比地区で途切れています。一説によると、雲仙火山と有喜火山のすそ野が重なる谷線だという。またこの地区には昔「唐比レンコン」という幻のレンコンがあり、今復活させようという取り組みがあるとか。

次回に続く

2012年2月 8日 (水)

千々石ミゲルの墓?

天正少年遣欧使節団の一人、千々石ミゲルの墓ではないかという墓石が発見されたのは平成15年(2003)のこと。

 ついこの間だと思っていたのに、もうそんなになるのか(^-^;

 諌早市伊木力地区の県道33号線を車で走っていると、墓石までの道標がありました。この日は別の要件で通りかかっただけなので、正確な位置までは知りませんでした。それでも墓碑までたどり着けたのは、案内が判り易かったためでしょう。

 周囲は公園として整備されています。その最も高い場所に、墓石はありました。

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墓碑の裏側には、ミゲルの息子千々石玄蕃の名があります。

 ミゲルはキリシタン大名大村純忠の甥にあたる人物で、島原の戦国大名有馬晴信の従兄になります。

 慶長6年(1601)頃までにイエズス会を脱退、その後棄教します。しかし、従兄の大村善前有馬晴信にも疎まれ、失意のうちに亡くなったと伝えられます。

 

より大きな地図で 天正遣欧少年使節 を表示

2012年2月 5日 (日)

琴尾岳烽火台跡

諌早市と長与町の町境にそびえる琴尾岳の中腹にのろし場の跡が残されています。

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長崎県指定の史跡です。

 烽火台と聞き、てっきり古代の烽火台かと思っていたら、違った(^-^;。

 江戸時代、長崎有事の際長崎の烽火山からののろしを、大村湾最奥の琴の尾岳から大村湾入り口の針尾島に通報するための中継として造られました。

文献上は2回使われたことになっていますが、考古学的には一回分の使用しか確認できなかったとか。遺構の保存状態もいいようです。

 その烽火台も文化6年(1809)に廃止され、代わりに飛脚を使って通報することになりました

アクセスは、県道33号線から琴の尾岳山頂の「琴の尾公園」目指します。公園の少し手前に「烽火台跡」の案内があり、駐車場があります。そこから遊歩道を下るのですが、結構下ります☟

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段運動不足なので、少しこたえました(^-^;。

 

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