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カテゴリー「長崎市」の44件の記事

2015年7月 2日 (木)

天然記念物「長崎市小ヶ倉の褶曲地形」

昭和38年7月23日、長崎県の天然記念物に指定され指定されています。
中生代白亜紀末の「横臥褶曲」という構造で、一つの露頭で見られる例は珍しいそうです。

説明板はあるのですが、素人目ではよく判りません(汗)。模式図ぐらいつけてほしいな。

説明板によると、横からの圧力で折り曲げられて逆転しているとか。多分、新しい地層の上に古い地層が乗っているという意味かと。
地層は主に板状の砂岩で、薄い泥岩を挟んでいるとのこと。

Img_7979_3

場所も少し判り難いですが、小ヶ倉団地の奥にあります。団地入口の交差点が、判り難かったです。

2015年3月17日 (火)

信徒発見ー国宝大浦天主堂

元治2年(1865)に建てられた、現存する日本最古の教会。正式名称は「日本二十六聖殉教者堂」。二十六聖人が処刑された長崎西坂を向いて建っています。

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2014年2月 7日 (金)

日本茶輸出貿易の先駆者ー大浦けい居宅跡

長崎市浜町商店街とその周辺の史跡巡り。2回目は楠本イネ道永栄と並ぶ「長崎三女傑」のひとり、大浦慶(けい)居宅跡です。

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2014年2月 3日 (月)

孫文先生故縁の地ー東洋日の出新聞社跡

長崎市浜町商店街とその周辺の史跡巡り。1回目は中国革命の父と呼ばれた孫文所縁の地。

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2014年1月 5日 (日)

長崎の茶わん蒸し専門店ー「吉宗」

明けましておめでとうございます。
正月休みで長崎市へ帰省中、久しぶりに浜町商店街とその周辺の史跡巡りをしてみました。

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2013年9月24日 (火)

長崎で「お諏訪さん」と言えば‐長崎諏訪神社

鎮西大社諏訪神社。10月7日~9日に行われる「長崎くんち」は、この神社の例祭です。

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2013年9月 5日 (木)

長崎ミルクセーキー他県のミルクセーキとの違いを再確認

「長崎ミルクセーキ」、子どもの頃に食べて以来です。他県のものと

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2013年9月 3日 (火)

恐竜展2013

長崎歴史文化博物館で「恐竜展2013」をやっている。恐竜は、私の歴史好きの原点のようなものですが、夏休み中は子どもたちで混んでそうだったので2学期を待って行ってみました。

エントランスホールの入ると、トリケラトプスの模型がお出迎え。この模型、動くだけでなく音も出ます。結構大きな声で鳴いてました。

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展示場内には、骨格標本などの資料がずらり。ケース内の化石については、イメージ模型が添えられています。音声ガイドを聞きながらじっくり見学。
※ちなみに写真撮影OK!

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下は、ティラノサウルスの骨格標本。躍動感のあるポーズは、3Dモデルを駆使したシュミレーションで獲物に襲いかかる一瞬を再現したものだとか。

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頭蓋骨についている「目」のようなもの、「強膜輪(きょうまくりん)」とよばれる目を支える骨だとか。薄くてもろいため、めったに化石として残らないらしい。哺乳類以外の脊椎動物にみられる。魚の頭食べる時に目の周りについているアレだね、たぶん。

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「鳥は恐竜から進化した」

この説が出てきたのは最近のことだと思っていたら、既に150年も前からあったんですね。戦争で恐竜の研究どころでなくなったことで忘れられてしまったようです。

近年、長崎でも恐竜等の化石の発見が相次いでいます。残念ながら今回は展示されてませんでした。

2013年8月29日 (木)

日見トンネルー車社会を見越したトンネル

江戸時代、長崎と小倉を結んだ長崎街道。その中で日見峠は、「西の箱根」と称されるほどの難所でした。明治15年、日見新道が開通。このころはまだ人力車や馬車の時代でしたが、その後自動車が交通の手段となっていくと、大正15年に日見トンネルが完成しました。全長642m、幅員7.4m 当時として日本最大規模のトンネルです。

このトンネル、自動車が普及し始めたとはいえ、まださほど多くなかった時代、1車線分の幅員で造る案もあったらしいのですが、今後自動車がさらに普及することを見越して2車線分の幅員にしたと伝えられています。
今でこそ交通量も減っていますが、日見バイパスが開通するまでは慢性的な渋滞でした。車社会の度合いが、先人たちの予測を超えてしまったといえます。

平成13年登録有形文化財に登録されました。

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手前に写っているのは、以前紹介した「梨子の木茶屋跡」です。

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2013年8月27日 (火)

日見峠新「新茶屋」跡ー日見新道開通により移転

日見峠の長崎側、旧長崎街道と日見新道が交差するあたりに「日見峠新茶屋の跡」碑があります。

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しかし、江戸時代の「新茶屋」は、写真の急な坂道(旧長崎街道)を下りたところにあります。新道の開通で客足が遠のいたので、新道脇の現在地に移ったと伝えられています。

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日見峠の由緒について、現地説明板では…

・日見峠では、江戸時代から昭和初期にかけて、毎年旧暦の8月1日(八朔)に日拝みをする習慣があり、多くの人で賑わった。日を見る峠で、「日見」というようになった。

・天正6年(1578)、長崎氏と深堀氏が当地で戦った際に、深堀氏側は大軍勢であることを装うために盛んに火を焚いたと伝えられる。火を見る峠で「火見」となったのを、後に「日見」と改めた。

・長崎奉行の送迎の際は、地元の役人が峠まで出迎え、見送りをする慣例があった。

と、あります。

天正6年の話は初耳ですね。長崎氏は今の長崎市中心部(長崎港の奥)を支配した領主、深堀氏は長崎市深堀地区(長崎港入り口付近)周辺を支配する領主です。日見峠は深堀氏から見て長崎氏の背後にある峠です。ここで両者が戦をするという状況が、どうもピンときません。長崎氏が領地を追い出されそうになったのでしょうか?
このころすでに、大村純忠によって長崎における南蛮貿易が行われています(長崎をイエズス会に寄進するのは、この2年後天正8年のこと)。当時の長崎氏はすでに大村氏の配下でした。深堀氏は後に竜造寺氏(その後鍋島氏)の配下となります。

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