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カテゴリー「中島川石橋群」の12件の記事

2013年3月18日 (月)

中島川石橋群をさるく11-袋橋

中島川石橋群、最後は袋橋です。長崎市指定文化財ですが記録が無く、いつ誰が架けたのか判っていません。ただ慶安年間(1618~1652)に架けられたと推定されています。眼鏡橋に次いで古いとされている。享保6年(1721)以降、度々の洪水でも流失しなかったようですが、昭和57年の長崎大水害ではアーチ部分を残して崩れました。修復にあたっては元の石材を活用して原形に復旧したとか。眼鏡橋同様江戸時代の風情が感じられます。
この橋から眼鏡橋を撮るのが観光客に人気のようなのですが、足元の橋のことも気に留めてほしいなあ(汗)。

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また、江戸時代から残る石橋はこの袋橋、一つ上流の眼鏡橋、番外編で紹介した桃渓橋の3つですが、袋橋と桃渓橋は重量制限があるとはいえ車が通ります。桃渓橋はさほど交通量は多くないのですが、この橋は結構車が通ります。
大丈夫なんでしょうか?轍は無かったようですが。

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2013年3月16日 (土)

中島川石橋群をさるく10-眼鏡橋

中島川石橋群10番目は、国の重要文化財「眼鏡橋」。寛永11年(1634)、興福寺2代目住職黙子禅師が架けた日本初の石造りアーチ橋です。
黙子禅師は中国江西省の人で、寛永9年(1632)来日しました。石橋を架ける技術指導者でもあったようです。
その後正保4年6月の洪水で損害を受けたため、翌慶安元年(1648)平戸好夢が修復しました。平戸好夢という人物、石工らしいのですが具体的には謎の人物のようです。
その後他の石橋が度々流失しているにもかかわらず、長崎大水害で半壊するまで、度重なる大洪水にも耐えてきました。長崎大水害のエネルギーが如何にすごかったか想像できます。

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下の写真は、「めがね橋」の「眼鏡橋」たる由縁を示しています。
江戸時代から「めがね橋」として親しまれており、明治15年(1882)正式に「めがね橋」と命名されました。


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下左の写真は、昭和57年長崎大水害で半壊した様子。
江戸時代の橋端は階段であったようですが、明治6年(1873)ごろ、人力車を通すため階段をなくしたとか。但し昭和28年(1948)以降車両通行は禁止されていました。

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修復時には流された石材を使って復元しているそうで、近くで見ても、江戸時代からそのまま在るような風情を感じます。(漆喰が所どころ新しいくらいです(笑))

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2013年3月14日 (木)

中島川石橋群をさるく9-魚市橋

中島川に架かる第9橋、魚市橋(うおいちばし)です。「石橋群」と云っておきながら、大正14年に鉄筋コンクリートになっています(笑)。元は橋の真ん中に橋脚がありましたが、河川改修工事で撤去されています。名前はこの辺りに魚市場があったことから、明治15年に付けられました。

元々元禄12年(1699)、大井手橋を架けた岡正敏の弟岡正恒によって架けられた石造りアーチ橋でした。その後洪水のたびに流失し、明治35年に鉄橋、大正14年にコンクリート製になりました。

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昭和57年の長崎大水害の後、バイパス水路が造られました。ここから魚市橋・眼鏡橋・袋橋の脇を通り、本流と合流します。水路の上は公園で、観光客が多いです。・・・というか、石橋はたくさんあるのにここだけしか見ないのはもったいない気がします(汗)。

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2013年2月25日 (月)

中島川石橋群をさるく8-東新橋

今回は中島川8番目に架かる「東新橋」です。寛文13年(1673)、石造りアーチ橋として架けられました。架けた人は不明です。享保6年(1721)洪水で流失。昭和57年の長崎大水害で流失したのは、三代目だとか。昭和61年に「昭和の石橋」として再建されています。

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この辺りから上流は、観光客ほとんどいなくなります。

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2013年2月23日 (土)

中島川石橋群をさるく7ー芊(すすき)原橋

7回目は「芊原橋」。「芊」が環境依存文字ですが、くさかんむりに「千」と書きます。

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宝永9年(1681)に架けられた(架けた人不明)石造りアーチ橋で、享保6年(1721)の水害で流失。昭和57年(1982)の長崎大水害で流出したのは3代目の石造りアーチ橋で、文化元年(1804)長崎奉行所によって架けられたものでした。「芊原橋」と命名されたのは明治15年(1882)のことで、当時周辺は草が群生していたとか。

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2013年2月17日 (日)

中島川石橋群をさるく6-一覧橋

中島川第6橋。明暦3年(1657)、最初の石造りアーチ橋が高一覧によって架けられます。高一覧は中国人高寿覚の子で、深見久兵衛と称し唐通事を務めた人です。慶安3年(1650)には、長崎街道の出発点「大手橋」も架けています。

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橋は享保6年(1721)の水害で流失。昭和57年(1882)の長崎大水害で流失したのは、享和元年(1801)長崎奉行所によって架けられた、3代目の石造りアーチ橋でした。

橋の名称は明治15年(1882)に最初の架設者高一覧に因んで付けられたとか。

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2013年2月15日 (金)

中島川石橋群をさるく5-古町橋

5回目は「古町橋」。元禄10年(1687)、貿易商川村甚右衛門の母妙了尼によって架けられた石造りアーチ橋。享保6年(1721)の水害で流失しています。昭和57年(1982)の長崎大水害で流出した橋は3代目の石造りアーチ橋で、享和3年(1803)長崎奉行所によって架けられたものだとか。「古町橋」と命名されたのは明治15年(1882)のことです。

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2013年2月13日 (水)

中島川石橋群をさるく4-編笠橋

中島川石橋群、4回目は「編笠橋」です。

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元禄12年(1699)、岸村氏夫妻によって石造りアーチ橋が架けられました。初代の橋は寛政7年の洪水で流失。享和2年(1802)、長崎奉行所によって2代目の石造りアーチ橋が架けられます。これも昭和57年(1982)の長崎大水害で流出してしまい、今は3代目です。

名前の由来は、この橋が架かる「今博多町」が往時「あめがた町」と呼ばれていたことで、明治15年(1882)に「編笠橋」と命名されたとか。また一説によると、近くに遊郭を控えた橋で、客が編笠をかぶって渡ったためともい云われています。

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2013年2月11日 (月)

中島川石橋群をさるく3-大井手橋

3回目は「大井手橋」。

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元禄11年(1698)、岡正敏によって石造りアーチ橋が架けられますが、享保6年(1721)に洪水で流失。現在の橋は4代目で鉄筋コンクリート製です。「長崎ぶらぶら節」でも謡われている橋ですが、はたして何代目の橋でしょうか?

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現地説明板の写真は長崎大水害前、在りし日の3代目大井手橋で、文化元年(1804)架設され、明治44年解体修理がおこなわれたとか。

アーチの形は残してほしかったな。

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2013年2月 9日 (土)

中島川石橋群をさるく(番外編)-桃渓橋

中島川の支流が中島川に合流する地点に架かるのが「桃渓橋(ももたにばし)」で、市の指定文化財になっています。

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延宝7年(1679)、卜意(ぼくい)というお坊さんが在留唐人たちに寄付を募り架橋したことから、別名「卜意橋」と呼ばれています。

長崎大水害で大破したが、その後原形に復旧されています。蔦に覆われているところが、なんとも趣があります。

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