日野江城跡-島原の戦国大名有馬氏の居城
14世紀に築かれた城で、江戸時代の初めまで有馬氏の居城でした。東の大手川、西の浦口川に挟まれた丘陵地にあります。国指定史跡。
14世紀に築かれた城で、江戸時代の初めまで有馬氏の居城でした。東の大手川、西の浦口川に挟まれた丘陵地にあります。国指定史跡。
元の名前は「志自岐原(しじきはら)城」といって、日野江城を本城とする有馬氏の支城でした。
雲仙市吾妻町の国道251号線を走っていると、「守山城跡公園」の案内板があったので、行ってみた。
去年大雨で崩落した島原城跡本丸の石垣を
前回紹介した伐株山。車で登れると云うので、登山口が判り辛かったが登ってみた。
山頂付近は芝生広場になっており、パラグライダー等を楽しむ人たちもいました。その広場の入口に説明板があります。
ここは、その昔「伐株山城」あるいは「玖珠城」と呼ばれた山城で、古くは南北朝時代に南朝方が立てこもったと云う記録もあるようです。また戦国時代には、島津軍の侵攻に対して玖珠郡衆が籠城して戦ったそうな。この城は周囲を崖に囲まれた天然の要害で、難攻不落であったようです。
今でも広場のあちこちに、土塁のようなものがあるのですが、公園化されているためか、あまり「!」ときません(汗)。
またこの山頂から眺めるパノラマは玖珠盆地を一望でき、素晴らしいです。
大村扇状地の南のはずれ、現在の市中心部付近にその古城はあります。
大村家の史料によると、天慶4年(941)「天慶の乱」で討たれた藤原純友の孫の直澄が、後に罪を許され、朝廷より肥前の国彼杵・高来・藤津の3郡を賜ります。正暦5年(994)に大村に下向し、久原城に入って大村氏を名乗ったと伝えられています。その後15代純治(すみはる)の頃、大村扇状地の北のはずれ、好武(よしたけ)城に移ったと云われています。
しかし最近の研究では、大村氏は元々藤津郡の平姓大村氏であったのが、戦国時代初期に藤津を追われて彼杵に入った、という説が有力です。
だったら、ここは何なんだ?
より大きな地図で 久原城跡 を表示
長崎自動車道東彼杵インターから国道34号線を大村方面へ約5km、東彼杵町里地区に、大村湾に突き出た小さな岬があります。元弘3年(1333)、地元の豪族江串三郎入道が討幕の兵を挙げた串島城跡です。緩やかな丘陵上には「城屋敷」という地名が残っていますが遺構等は確認できません。城というより砦に近かったのではないでしょうか。
元弘3年3月12日、肥後の菊池武時が鎮西探題を襲撃する事件が起こります。この事件に報復すべく準備を進めていた鎮西探題のもとに3月17日、肥前の国彼杵郡から早馬が到着し「3月14日に江串三郎が尊良親王を奉じて挙兵した」という。
親王が居られる場所が本営と見た探題は、肥後の菊池氏討伐を後回しにして、佐賀の高木氏・多久氏(前多久氏)、唐津の波多氏・値賀氏といった豪族を江串追討に向かわせます。
次回「大樽の滝-尊良親王縁の地」
佐世保市大野地区、県立佐世保工業高校正面の丘の上に、その城跡はあります。中腹の「大智庵長名寺」まではなんとか車で行けます。そこから長い階段を上っていくと本丸跡があり、城跡公園として整備されています。
宗家松浦氏は、はじめ相浦の武辺城を居城としていましたが、延徳2年(1490)第14代定(さだむ)の時、交通の要衝であったこの地に城を築いたといわれます。
しかし8年後の明応7年(1498)、平戸を拠点に勢力を伸ばしていた平戸松浦氏の夜襲を受け一夜で落城。宗家松浦氏15代政(まさし)は討ち死に、子の幸松丸は平戸に連れて行かれます。幸松丸はその後旧臣に救出され、宗家16代親(ちかし)として旧領を回復、飯盛城を築きます。宗家松浦氏と平戸松浦氏の対立はその後も続き、最終的に平戸松浦氏が宗家松浦氏を滅ぼすのですが、親は戦死者の菩提を弔う事業を多く行っており、この公園にある「松浦丹後守政の墓」もこのときに建立されたもののようです。
現在佐世保市指定文化財になっているこの墓は、元々別の場所にあったものを戦前に移したものであるとか。安山岩の宝きょう印塔で、佐賀県側で製作されたもののようです。ちなみにここからひと山越えれば佐賀県伊万里市に出ることが出来ます。
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