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カテゴリー「玖島城跡」の6件の記事

2012年6月 4日 (月)

玖島(大村)城をさるく(番外編)-城内の記念碑群

 玖島城跡には、現在幾つかの記念碑が建てられています。その一部を紹介します。

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2012年5月31日 (木)

玖島(大村)城をさるく5-海城の港湾施設

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玖島城には、三の丸に付属する形で港湾施設が造られています。江戸時代、船は貴重な交通手段でしたが、大村藩領は大村湾を取り囲むように形成されているため特に重要な交通手段でした。藩主が長崎に赴くときは、ここから対岸の時津村まで船を利用することが多かったといいます。

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 船役所跡。現在は駐車場になっていますが、船着き場の突堤や石積みの護岸を見ることが出来ます。周りには船を建造・修理する施設もあったといいます。

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 御船蔵跡。元禄年間、4代藩主純長(すみなが)によって築造されました。藩主が使用する御座船をはじめ、藩の船が格納されていました。当時は屋根で覆われていたらしく、柱の礎石が残っています。左写真奥の建物の辺りが三の丸の一部で、米蔵や硝煙小屋があったとされています。長崎県の史跡に指定されています。

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 新蔵波止。貞享3年(1686)に幕府からの官米を3,000石を預かることのなり、筑前国の代官所から運び込まれることのなったとか。その米の荷揚げのために新しく造られました。

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 今でも対岸の時津・長与・大草に向かう船が1日数本出ています。

2012年5月27日 (日)

玖島(大村)城をさるく4-城の縄張(後篇)

城の二の丸は本丸の北側から、西、南側を帯郭状に巡っており、その南西の隅(板敷櫓側)が袋状に突き出だ形になっています。また、西側の空堀を隔てて三の丸があります。

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桝形跡。大手門を入って左手の石段を登るとあります。

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虎口門跡。本丸の城門。向かって右手に櫓がありました。ここを入ると本丸御殿がありました。

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台所門。本丸の城門。藩主の住居を俗に「お台所」といい、その出入り口を台所門と云います。

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搦手門跡。本丸の裏口になります。慶長4年の改修までは、こちらが表口でした。櫓門があったと伝えられています。

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玖島城に天守閣はありません。本丸には御殿があり、その内政庁部分は現在の大村神社、私邸部分は玖島稲荷神社の境内になっています。

次回に続く

2012年5月23日 (水)

玖島(大村)城をさるく3-城の縄張(前編)

 玖島はその名の通り島でした。喜前が城を築くにあたり、城の北側今の大村公園入り口付近を堰き止めて、城の入り口としています。
 その後純頼の時代、大手門の移設に伴い今度は南側を堰き止めて入口としました。

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大手入口門跡。ここから大手門前までを「二重馬場」といい、二本の道が走っています。元々海だったと所を堰き止めて造っています。

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大手門跡。木に隠れて見えませんが、石垣があります。当時は鉄門付きの渡り櫓門があったといいます。慶長19年(1614)に改修した時に造られています。

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長堀跡(左)と南堀跡(右)。長堀は大手門から東側にかけて、南堀は大手門から南側にかけて続いています。5月下旬から花菖蒲が見頃です。

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板敷櫓台。観光パンフ等でよく見かけるのがこの櫓です。この櫓の北側には空堀があります。櫓自体は復元されたものです。大手門から櫓台にかけての石垣は慶長19年の改修時に築かれたものだとか。扇勾配の石垣が加藤清正との関係を窺わせます。

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大手門を抜けると右手に穴門跡があります。穴門を抜けると長堀の内側の郭になります。用途がよく判りません。大改修前の裏門跡でしょうか?

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角堀跡。元は海だった場所です。桜の名所でもあり、4月には花見客でにぎわいます。

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いろは段跡。城の北側にあります。大改修以前の大手門で、石垣も古い形式です。石段はいろは47文字にちなんで47段あるらしいのですが、一番下から門の入口まで44段しかありません。もしかして門を入って左手の3段も加えるのか?

以下後編。

2012年5月15日 (火)

玖島(大村)城をさるく2-玖島崎樹そう

 玖島城に本丸の東側から北側、西側にかけて茂る自然林があります。すでに江戸時代大きな樹木があり、大村を訪れた文人の日記にもお城の建物が樹木で見えないという逸話が出てきます。明治時代に廃城になったのち、人の手が入らなくなったため、今のような樹そうになったといいます。

 多くの種類の暖地性樹木や草本が生い茂り、中でもこれまで県内諌早市の城山公園が北限とされていたヒゼンマユミが幾つか見つかっています。自然保護上、また学術上大変貴重だという事で、県の天然記念物に指定されています。

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 写真は本丸西側の樹そうで、左手に空堀、右手に三の丸があります。まっすぐ進むと城の南側、板敷櫓に出ます。本丸の東側と北側は斜面がほとんどなので、樹そうの中を散策するには最も適した場所でしょう。

 次回に続く

2012年5月13日 (日)

玖島(大村)城をさるく1-順天倭城の経験

 玖島城、別名大村城は、大村藩27,900石の居城で、慶長4年(1599)大村家19代で藩祖大村喜前(よしあき)築城しました。

 三方の海を外堀に、その北側に大手を造りました。この時期の石垣は自然石をそのまま積み上げたものです。また、北側の海岸は遠浅なため海から攻められたときに備え、海中に深さ4mの「捨堀」を巡らせていました。これはほかの城に見られない独特なものです。
 現在城の北側は埋め立てられており、市役所や競技場などが出来ています。

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 この城を造るに当たっては、順天倭城の経験が生かされています。順天倭城は、文禄慶長の役で日本軍が築いた倭城群のうち西の端にあり、小西松浦有馬大村五島の各大名が駐留していました。
 慶長3年(1598)、
百姓から天下人になった「戦国時代の出世頭」太閤秀吉が死去。これを受け日本軍は朝鮮からの撤退を秘密裏に進める手はずでしたが、情報が漏れてしまいます。結果、順天倭城は敵に囲まれてしまいますが、三方を海で囲まれた天然の要害であったため、味方の援軍が来るまでなんとか持ちこたえることが出来ました。
 帰国後、政情不安から新たな城造りの必要性を感じた喜前は、それまでの居城三城城から水軍の運用に適した玖島の地に、順天倭城の経験を生かした城を築くことになります。

 その後20代(2代藩主)純頼(すみより)が慶長19年(1614)に大改修を行い、大手を南側に、石垣も美しくつくりかえました。この大改修で肥後の加藤清正が城造りのアドバイスをしたといわれています。

次回に続く

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