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カテゴリー「屋敷跡」の16件の記事

2013年8月27日 (火)

日見峠新「新茶屋」跡ー日見新道開通により移転

日見峠の長崎側、旧長崎街道と日見新道が交差するあたりに「日見峠新茶屋の跡」碑があります。

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しかし、江戸時代の「新茶屋」は、写真の急な坂道(旧長崎街道)を下りたところにあります。新道の開通で客足が遠のいたので、新道脇の現在地に移ったと伝えられています。

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日見峠の由緒について、現地説明板では…

・日見峠では、江戸時代から昭和初期にかけて、毎年旧暦の8月1日(八朔)に日拝みをする習慣があり、多くの人で賑わった。日を見る峠で、「日見」というようになった。

・天正6年(1578)、長崎氏と深堀氏が当地で戦った際に、深堀氏側は大軍勢であることを装うために盛んに火を焚いたと伝えられる。火を見る峠で「火見」となったのを、後に「日見」と改めた。

・長崎奉行の送迎の際は、地元の役人が峠まで出迎え、見送りをする慣例があった。

と、あります。

天正6年の話は初耳ですね。長崎氏は今の長崎市中心部(長崎港の奥)を支配した領主、深堀氏は長崎市深堀地区(長崎港入り口付近)周辺を支配する領主です。日見峠は深堀氏から見て長崎氏の背後にある峠です。ここで両者が戦をするという状況が、どうもピンときません。長崎氏が領地を追い出されそうになったのでしょうか?
このころすでに、大村純忠によって長崎における南蛮貿易が行われています(長崎をイエズス会に寄進するのは、この2年後天正8年のこと)。当時の長崎氏はすでに大村氏の配下でした。深堀氏は後に竜造寺氏(その後鍋島氏)の配下となります。

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2013年7月20日 (土)

旧本田家住宅ー長崎県最古の農家住宅

旧大村藩領古賀村、長崎街道から少し入ったところに国指定重要文化財「旧本田家住宅」があります。県内最古の農家住宅の一つで、17世紀末~18世紀中ごろに建築されたと云います。
本屋根だけでなく下屋も萱ぶきになっているのは珍しいです。間取りは囲炉裏の間・座敷・納戸の3部屋と土間からできています。

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屋敷の側まで車で行けないこともないのですが、道が細くてハラハラします。

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2013年7月14日 (日)

三浦按針終焉の地

元和6年(1620)5月16日、当時住んでいた木田弥次右衛門宅で死去。享年57歳。

先日紹介したイギリス商館跡の隣にあります。

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2013年2月 3日 (日)

上野撮影局跡‐日本最初の写真館

文久2年(1862)、日本初のプロカメラマン上野彦馬が自宅に併設した、日本初の写真館。

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彦馬は、この撮影局で、坂本竜馬をはじめ多くの幕末の志士を撮影しています(ただ、坂本竜馬の写真についてはお弟子さんの作だと云う説もあるようで)。

また、明治7年(1874)の金星観測において、日本初の天体写真を撮ったり、明治10年の西南戦争には、日本初の戦場カメラマンとして活躍したりしています。

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2013年1月20日 (日)

長崎聖堂跡‐天領長崎の学問所

 「長崎聖堂」別名「中島聖堂」。向井元升(むかいげんしょう)が、正保4年(1647)に東上町に開いた立山書院を前身とし、正徳元年(1711)にこの地に移され、名称を「長崎聖堂」と改めています。祭酒に元升の三男元成が任じられて以後、代々向井家が祭酒を世襲しました。
 敷地は545坪(約1799㎡)で、本殿の大成殿や大学門など多くの建物があったようです。大学門と大成殿は市内の興福寺境内に移されているほか(県指定史跡)、孔子像、祭具、文書類は長崎歴史文化博物館の保管されているようです。
(現地説明板参照)

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2013年1月14日 (月)

木下逸雲宅跡‐長崎南画興隆の基礎築く

長崎市八幡町、現在公民館になっている周辺に「長崎三画人」のひとり、木下逸雲の屋敷がありました。木下家は代々八幡町の乙名(代表者)を務めており、逸雲も一時期、乙名を務めていました。中国人から絵画を学び、長崎南画興隆の基礎を築いたとされています。

(写真をクリックすると拡大します)

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ちなみに左のシャッターの中には、長崎くんちの出し物が入っている
…はずです(^-^;

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2012年10月22日 (月)

中尾家屋敷跡

 小姓小路の南、日向平小路に五色塀のあるお屋敷があります。説明板らしきものは見当たりません。県の「まちづくり景観資産」、大村市の「都市景観賞」に選ばれているようです。

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この屋敷は、文政9年(1826)から中尾半兵衛の住まいでした。半兵衛は、文化10年(1813)伊能忠敬が大村藩を測量した時、その世話をしたと伝えられています。その子静摩は藩の要職を歴任、大村藩勤王同盟三十七士にも名を連ねています。


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2012年10月 4日 (木)

五教館御成門

 寛文10年(1670)4代藩主純長の時代に、藩校「集義館(しゅうぎかん)」として家臣に学問や武道を習得させました。全国で7番目、九州最古の藩校です。
 元禄7年(1694)静寿園に改称、寛政2年(1790)藩校を拡充して「五教館(ごこうかん)」に改称しています。天保2年(1831)本小路、現市立大村小学校付近にに移転しています。藩校は藩士の子弟に限らず一般の子弟にも解放されていました。

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 この御成門(黒門)は、歴代の藩主が来校した時に使用された門で、県の史跡に指定されています。

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2012年9月13日 (木)

近代公園の先駆者長岡安平生家跡

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 長崎街道彼杵宿本陣(現彼杵神社)脇に、日本近代公園の先駆者長岡安平の生家がありました。

 安平は天保13年(1842)、大村藩彼杵村(現東彼杵町)で生まれました。幼少の頃より庭造りに興味を持ち、郷土の自然景観を師として独学で造園の研究をしたと伝えられます。そんな安平の転機となったのは、郷土の先輩楠本正隆との出会いでした。楠本正隆は「大村藩勤王同盟三十七士」に名を連ねる幕末の志士で、明治になってからは官僚、政治家として活躍した人物です。

 安平は、明治5年(1872)正隆が新潟県令の時、日本最初の都市公園「白山公園」の設計に携わりました。その後正隆が東京府知事になると、明治11年に安平を東京府土木掛吏員に任命、芝公園を始めとする公園整備や街路樹植栽の任に当たらせています。

 明治29年に手掛けた秋田市千秋公園の設計は全国で評判となり、各地から公園・庭園の設計依頼が殺到したとか。その後大正14年(1925)に亡くなるまで、公園41件、庭園25件の他、史跡・名勝・天然記念物の保存にも力を注ぎました。中でも秋田県旧池田氏庭園は平成16年、国の名勝に指定されています。

 現在地元の歴史民俗資料館で、長岡安平について紹介されています。

この場所は、大正6年から銀行の用地として使用されています。詳細はコチラ

より大きな地図で 近代庭園の先駆者、長岡安平生家跡 を表示

2012年6月 2日 (土)

桜田屋敷跡-九州最古の藩校

 大村公園に入ってすぐ、国道と角堀跡の池に挟まれたエリアに屋敷跡があります。この場所は元々「黒石原」という浜辺でしたが、慶長4年(1599)玖島城築城時に埋め立てて屋敷地になりました。

 寛文10年(1670)4代藩主純長の時代に、藩校「集義館(しゅうぎかん)」として家臣に学問や武道を習得させました。全国で7番目、九州最古の藩校です。
 元禄7年(1694)静寿園に改称、寛政2年(1790)藩校を拡充して「五教館(ごこうかん)」に改称しています。天保2年(1831)本小路に移転しています。

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 また、延宝年間(1673~1681)に桜100本を植え、現在の桜並木の原型が作られたといいます。春の花見の時期は大変賑わいます。さらに元禄15年(1702)に築山や池を造り、遊宴の地としたといいます。現在の庭園は、国道で半分ほど削られています。この庭園、はじめて行くと少し判り辛い場所かもしれません。

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