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カテゴリー「伝承」の7件の記事

2012年12月10日 (月)

大分県伐株山‐巨木伝説

 豊後の国風土記で、玖珠郡の地名の由来として昔あった巨大なクスノキに因むと記されています。

 またこの地方の民話に、昔巨大なクスノキがあって、この地はほとんど日が当らなかった。それで困った住民はクスノキを伐り倒してしまった。その名残が伐株山であると。

ちょっと詳しく

昔々、玖珠盆地に天にもとどきそうな大きなクスノキがありました。田畑は大木の陰になって作物も育たず、村人はたいそう困っておった。「なんとかあのクスノキを伐り倒すことはできないものか」村人はくる日もくる日も相談したそうな。そして、腕自慢のきこりに頼んで伐ってもらうことにした。

きこりは仲間5人と共に、暗くなるまで鋸を引いていました。暗くなって家に帰り翌朝来てみると、驚いたことに昨日暗くなるまで伐った切り口が見つかりません。仕方ないので、昨日伐り始めた場所と同じところを伐った。ところが次の日もまた次の日も、切り口が消えてなくなっているではないですか。きこりたちは途方にくれました。

そんなある日、身の丈九百尺もある大男が村にやってきました。そしてきこりたちに代わって伐ってやることになりました。ところが、いくら切っても翌朝には元通りに直っていました。

さすがの大男も困り果てていると、クスノキの上の方から下りてくるものがありました。それはヘクソカズラの精でした。ヘクソカズラの精が云うには、

「私たちはこのクスノキから養分をもらい、そのお礼に汁を出しで傷口を治しています。ところが、私の出す汁か臭いと云ってこの木が嫌がるのです。
この木がまだ小さいころからずいぶんかわいがってあげ、私が臭いお陰で虫もつかず、病気にもならず、嵐で傷ついてもすぐに治してここまで大きくなったのに私のことを『臭い、臭い』と嫌がるのです。あまりの恩知らずに腹が立ったので、この木を切り倒す秘伝を教えましょう。毎日伐っただけの木屑を焼き捨ててしまえばよいのです。」

それから大男やきこりたちは、ヘクソカズラの精が教えてくれた通り毎日その日の切りくずを焼き捨て、焼き捨てては伐りして、三年三カ月かけてこのクスノキを伐り倒すことが出来ました。

玖珠盆地や日田盆地は元々湖だったのが、大木が倒れ湖の土手が切れて水が流れてしまったそうな。木屑を焼いたところが「はんざい(今の寺山)」クスノキの先端が長崎、落ち葉の跡が博多、葉の流れ着いたところが斯波、その切り株が伐株山だと云われています。「玖珠」と云う地名もこの楠の大木に由来します。

また、倒された大木は中をくりぬき二百人乗れる日本一大きくたいへん速い丸木舟を造ったそうな。

おしまい

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 標高685.5mのこの山の地質、巨木の跡なら「珪化木」だと思うのですが(笑)。長崎から大分へ車で行く時は必ず通るので、とても馴染みのある山です。最近、車で登れることが判ったので行ってみた。その話はまた今度(汗)。

より大きな地図で 大分県玖珠郡玖珠町 を表示

2012年7月27日 (金)

大樽の滝-尊良親王縁の地

 前回紹介した串島城跡の南を流れる「江の串川」を1kmほど遡ると、「大樽の滝」があります。この滝は5段になっており、下から2段目左岸に「奥の院」と呼ばれる洞窟があるらしい。その昔江串三郎尊良親王を奉じて挙兵した時に、宮様が居られた場所であると云い伝えられています。
 この場所は海岸線から近いにも関わらず、海岸からは見えない位置にあります。隠れ場所としては適地のようです。
 また昔この辺りにあった「エブク寺」の修験者たちの修練場であったともいわれています。長崎と佐賀の県境にある多良山系にはその昔修験者たちがたくさんいた様で、親王が挙兵に失敗してその後大宰府に姿を現すまでの約2カ月の間、彼らの協力のもと身を隠していたとされています。

 洞窟を確認したかったのですが、周囲にイノシシ除けの柵が巡っていて近づけませんでした(汗)。

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 現在この場所は「河川公園として整備されています。以前に比べて訪れやすくなっています。

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次回「江串三郎入道塚-伝江串三郎の墓

2012年4月24日 (火)

遠目百貫石―佐賀藩、大村藩領有権争い

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長崎県大村市から佐賀県嬉野市へ通じる県道6号線を県境まで行くと、現在自衛隊演習場となっている「大野原高原」があります。

県道6号線の歴史は結構古く、律令制の時代には肥前の国の国府から、肥前彼杵郡、高来郡に抜ける駅道が通っていたと推定されています。また戦国時代には、佐賀側から大村側への進軍ルートとして度々使われています。そのため江戸時代大村藩では、峠に通じる登り口付近に国境警備のための鉄砲隊を配置していました。江戸時代には長崎街道の裏街道として利用されていました。

大村藩と佐賀藩の間では、この地を巡る領有権争いが絶えませんでしたが、天明7年(1787)、双方で合意が成立したといいます。

記録では、

大野原境目、先年より佐賀領と論地の場所。天明7年熟談に相成り、双方境方役人立ち会い境杭打ち付け候につき、郡奉行河野与右衛門、小目付佐藤甚右衛門、彼地へまかり越し見分相済み、甚右衛門見届け候。

とあります。この後基準となる細かい数字が出てきます。

また伝承では、

大村方が「この大岩から見渡せる範囲を百貫で売ろう」と提案すると、佐賀方が「よし、買った!」といったそうな。そこですかさず大村方「『買う』というからには、この土地が大村領であることを認めたな」と。それからこの大岩を「百貫石」という。

とあります。

この大岩は長崎県東彼杵郡東彼杵町遠目郷の県境にあります。以前は写真右側道路の辺りに大岩とその上に載った小ぶりの岩がありましたが、県道を拡幅する際、移設可能な上の岩を現在地に移して記念碑にしたとか。

余談ですがこの県道、大村市の野岳堤から県境まで一部広くなっていますが、まだ離合困難な場所も多く、注意が必要です。

より大きな地図で 東彼杵町の史跡 を表示

2012年3月29日 (木)

もう一つのさばくさらかし岩(西有家町サバくされ石)

南島原市の『西有家町郷土誌』を読んでいると、「サバくされ石」の記述が目に留まりました。話の内容も、以前紹介した時津町のさばくさらかし岩と同じ。出典は長崎県小学校教育研究会国語部編『長崎の伝説』と出ています。

場所は小浜町(現雲仙市)との町境近く、塔の坂地区の旧道キリシタン道路尻切坂そば。但し現在(平成10年、西有家町郷土誌刊行時)は森に覆われて見えないとか。ダメもとで現地に行ってみました。

雲仙温泉街の手前から国道389号線に入って、塔の坂地区入口までの区間にあたりをつけて車を走らせました。この区間、国道は尾根筋を通っていますが、どうもその大岩が在りそうな景観に見えません。むしろ塔の坂の集落を挟んで反対側に見える高岩山周辺には幾つも岩が露出していて、奇岩があってもおかしくない気がしました。またしばらく走っていると、九州自然歩道の案内板があったので、参考に見てみました。

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地図で見ると、そのルートは高岩山の麓を通って雲仙温泉に抜けているようです。やはりその岩は高岩山周辺なのか?あいにく山登りの格好ではないので、今回は撤収(゚ー゚;

2012年2月26日 (日)

雲仙市小浜町の六角井戸

雲仙市小浜町富津地区に弘法大師ゆかりの井戸があります。場所は魚港のすぐそば。

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その昔、弘法大師が諸国巡礼の際この地に立ち寄り、老婆に一杯の水を求められた。老婆は快く応じてくれたが、長時間待たされてようやく飲むことが出来た。訳を尋ねると、近くに井戸水が出ないためだという。住民の難儀を見かねた弘法大師は、水源のありかを六角の杖で示された。住民がその場所を掘ってみると、清水がこんこんと湧き出たと伝えられている。

現在の水道施設が出来るまで、この地で唯一の飲料水であったといいます。

所謂「弘法水」の伝承の一つと考えられますが、その多くは弘法大師自身が杖をつくと水がわき出したというパターンのようです。しかし、ここでは村人に掘らせています。弘法大師が神(仏?)格化される一つ手前の段階の伝承か。

2012年1月29日 (日)

さばくさらかし岩

長崎市中心部から時津町に向かう国道206号線を車で走っていると、巨大な岩が見えてくる。岩の柱に巨石が載った今にも落ちそうな奇妙な岩「さばくさらかし岩」です。別名「継石坊主」。時津町の文化財に指定されています。

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狂歌師蜀山人が、長崎奉行所在勤中に紹介したことで有名になったとのこと。個人的には、魚売りの話の方がなじみがあります。 

ずいぶん昔にローカルCMで紹介されていたのと、某全国ネットの日本の昔話を紹介するアニメに登場しました。要約すると、 

昔時津村の魚売りがそばを通りがかり、今にも落ちそうな岩を見て、落ちてから行こうと待っていたら売り物の魚が腐ってしまった。

 といった話です。 

今落ちてきたら、交通量の多い国道は大変なことに。なので、安全のためボルトか何かで固定していることは想像に難くないのですが、それを現地に確かめに行ったつわものが居られるようです。結果は想像にお任せします(*^-^)。

 

場所は、時津町の長崎バス継石バス停のそばです。

2012年1月 7日 (土)

俊寛僧都墓碑

今年のNHK大河ドラマ「平清盛」。その関連遺跡があると聞き、長崎港入り口に浮かぶ伊王島まで来ました。 

伊王島までは数年前伊王島大橋が開通し、車で行けるようになりました。 

車で行くなら島の西側の道を通ると墓碑まで行けます。途中、俊寛がねぐらにしたと伝えられる岩窟への入口を示す説明板があるのですが、険しそうなので今回はやめます(^-^; 

墓碑のある場所は公園になっており、車が数台止められます。 

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治承元年(1177)平家打倒の密議(鹿ヶ谷の謀議)が露見し、藤原成経平康頼とともに鬼界ヶ島(硫黄島)に流されたとされています。成経康頼は後に許されて京に戻りますが、俊寛僧都はこの地で亡くなります。 

碑ははじめ、江戸中期の宝暦6年(1756)に建立されますが、天保14年(1843)の台風で倒墓れてしまいます。その後弘化2年(1845)に再建されたものが今日まで残っており、長崎市(旧伊王島町)の指定文化財になっています。江戸時代の中ごろには、俊寛が流された島がこの伊王島であると信じられていたようです。 

墓碑の隣には、北原白秋の歌碑が建っています。風化がひどく不鮮明ですが、昭和10年、俊寛の墓所を訪れた白秋が「伊王島」と題して詠んだ長歌と反歌です。昭和25年に地元の文人たちによって建てられたものです。(現地案内版) 

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しかしなぜ、俊寛ら3人はこの地に流されたことになっているのか? 

伊王島大明寺教会の裏手に藤原成経草庵跡の説明板があります。それによると、清盛の弟で成経の義理の父にあたる平教盛が、薩摩の国の硫黄島に流されるはずの3人を、自分の領地肥前の国に同名の伊王島があることからこの地に流し、都には薩摩の硫黄島に流したと報告したらしい。 

俊寛僧都の遺骨が残っているとは思えないし、公的な記録は薩摩の国に流したことになっているので、肥前に流したという私的な記録でも出れば決まりでしょうが、真相は歴史の彼方に。

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