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カテゴリー「キリシタン史」の17件の記事

2015年3月17日 (火)

信徒発見ー国宝大浦天主堂

元治2年(1865)に建てられた、現存する日本最古の教会。正式名称は「日本二十六聖殉教者堂」。二十六聖人が処刑された長崎西坂を向いて建っています。

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2013年9月10日 (火)

鈴田牢跡ーキリシタン専用牢

大村市鈴田地区にある鈴田牢は、元和3年(1617)7月から元和8年(1622)9月まで、長崎奉行所の捕えられたキリシタン宣教師や信者が入れられていました。キリシタンのための牢だったと云います。広さ26平方メートルの小屋に多い時で33人もの人が入っていた。
江戸時代の初期、元和8年8月5日(1622年9月10日)にあった「元和の大殉教」の時も、多くのキリシタンが入れられていました。

写真右にあるのが牢屋跡です。奥行き5.3m、間口3.5mで、周囲には二重に柵が設けられ、扉には二重の鍵がかけられていた。宣教師が残した記録によると、鳥かごのようであったと。

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近くによって見ました。擬木で囲った範囲が牢屋の広さだとか。確かに狭い。真中にある台は、牢屋跡を復元するにあたり、祈りをささげる場として設置された祭壇です。

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鈴田牢は元和の大殉教の後しばらくして、大村の御城下に移転します。

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2013年2月21日 (木)

中浦ジュリアン出生地

天正遣欧使節の副使、中浦ジュリアンの出生地です。この地は小佐々水軍の一族で中浦城主だった小佐々甚五郎純吉が治めており、その子が中浦ジュリアンになります。ただ、父純吉ジュリアンが2歳の頃、永禄12年(1569)の合戦で討ち死にしています。

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ここは「中浦ジュリアン」記念公園」として整備されており、展望台の上には遠くヨーロッパを見つめるジュリアンの銅像が建っています。銅像の周りには遣欧使節団の足跡等を紹介したパネルがありました。展望台の1階部分は小さな展示室になっており、関連の古文書が展示されていました。・・・で、この展示室、音が良く響きます。

近くにある顕彰碑は、地球の上に帆船をかたどったものであるとか。

近くの「城の山(中浦城跡)」は14・5世紀の山城で、小佐々一族の城です。海側が国道で削られていますが、本丸や二の丸、土塁などが残ってるといます。ただ地元の方の話では、特に説明板とかはないそうです。

ちなみに、出生地・城跡については江戸時代の大村藩の記録に、それと推定できる記述があります。

より大きな地図で 中浦ジュリアン を表示

2012年12月25日 (火)

川棚町のキリシタン墓碑

 川棚町の中心部、常在寺の境内に長崎県の史跡に指定されている一つのキリシタン墓碑があります。元和8年(1622)に没した「富永二介の妻」の墓碑です。大村藩では明暦3年(1657)の「郡崩れ」の後、領内のキリシタン墓碑が徹底的に破壊されますが、奇しくもその難を逃れた一つです。

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 常在寺の左手に墓地があり、そこを登っていくと、墓地のはずれにその石碑があります。今でこそ端っこですが、中世の頃は中心に近い場所であったと云います。

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より大きな地図で キリシタン墓碑 を表示

2012年12月 7日 (金)

嬉野市不動山のキリシタン史跡

 嬉野市不動山地区に幾つかのキリシタン史跡が伝わっている。県道106号線沿いに案内板があるので、行ってみた。(写真をクリックすると拡大します)

●垣内史跡

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●太刀洗川史跡

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●異宗徒塚跡

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●馬場之子屋敷跡

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●子捨谷史跡

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 場所は長崎街道から少し離れた山奥。ひと山越えれば長崎県なので、この手の史跡があってもおかしくないのですが、説明板を読む限り伝承の域を出てないような気がします。

 念のため嬉野市の資料館にも問い合わせてみたが、確実な文献に乏しく、未だ伝説の域を出ていない旨の回答をいただいた。

※地図はおおよその位置です。

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2012年9月11日 (火)

日本二十六聖人上陸地

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 上陸地の石碑は、長崎空港との連絡船が出る時津港の一角にあります。慶長2(1597)年1月、大坂の堺を出た一行は、処刑前日の午後肥前の国彼杵村に入り、その日のうちに大村湾の対岸にある時津村へ船で護送されました。時津村についたのは夜中の11時頃であったとか。彼らは船で一夜を過ごし、翌早朝長崎へと向かいます。

 彼杵村の記念碑、そして何故船なのかについてはコチラ

より大きな地図で 日本26聖人 を表示

2012年7月10日 (火)

天正遣欧少年使節、原マルチノ出生地

 長崎県波佐見町の総合会館入り口に一つの銅像が建っています。天正10年(1582)にヨーロッパへ派遣された少年使節のひとり、原マルチノの像です。

 波佐見の領主、原中務の子として生まれています。特に外国語が堪能であったとか。インドのゴアでラテン語の演説をしたといわれています。

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 原マルチノが波佐見の出身であるという事は、ローマに残された史料から推測されるだけで、両親の経歴など不明な点も多いようです。

2012年6月28日 (木)

郡崩れ-大村藩3度目の存亡の危機

 島原の乱から20年後の明暦3年(1657)、肥前の国大村藩領内に潜伏キリシタンが多数発見されました。一般に「郡崩れ」と呼ばれています。

 事の起こりは、大村領郡村矢次の百姓兵作が長崎油屋町の指物屋池尻理左衛門に、「矢次の里に天草四郎の生まれ変わりがいる。萱瀬の久良原(きゅうらばる)岩窟に隠している絵を取り出して、実に不思議な術法を説く。興味があれば連れて行ってもよい・・・」、と漏らしたことによります。それを聞いた理左衛門は「これは一大事」と長崎奉行所に訴え出ました。
 奉行所はただちに兵作を尋問し、状況はすぐに大村藩に通報されました。大村城内では大変な騒ぎとなり、連日関係者の逮捕尋問が行われたとか。
 最終的に投獄者608名に膨れ上がります。あまりに多いため大村・長崎・佐賀・平戸・島原の5か所で取り調べの上、処分されました。
 このうち大村領内については、キリシタンの絵を祀っていた萱瀬の「仏の谷」・杭出津の「妻子別れ石」・共和町の「放虎原殉教地」・松並の「獄門所跡」・桜馬場の「胴塚跡」・原口町の「首塚跡」があります。但し「仏の谷」については、近くにある萱瀬ダムのかさ上げ工事で周囲の景観が変わったため、場所が特定できませんでした。

  当時の藩主は、第4代純長公。6年前の慶安4年(1641)に家督を継いだばかりの21歳でした。純長公は譜代大名伊丹勝長の子で、家督を継いだ経緯については、また後日(ちなみにこれが2番目のお家存亡の危機でした)。
  本来なら御取り潰しになってもおかしくない事件なのですが、純長公は実家を通じて直ちに幕府に報告したことから、お咎めはなかったといいます。

2012年6月24日 (日)

郡崩れ-首塚跡

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 「郡崩れ」で捕えられたキリシタン131名の首を埋めた場所と伝えられている。大村市原口町公民館前に顕彰碑がある。
 首と胴を別々に埋めたのは、キリシタン妖術で首と胴がつながって生き返ると信じられていたためとか。

2012年6月22日 (金)

郡崩れ-胴塚跡

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 「郡崩れ」の時捕えられた、キリシタン131名の胴を埋めたという。実際の場所は、ここから150mほど北寄りの場所だとか。

 大村市桜馬場2丁目。脇に車を止めるスペースはあるのですが、そこに至る道が細く、入口も判り難い。

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