梨子の木茶屋跡-日見峠東側
長崎市内、日見トンネルの東口に小さな公園があるのが以前から気になっていたので、行ってみた。
「西の箱根」と称された日見峠の中腹、「梨子の木茶屋跡」だとか。標柱はあるのですが、説明板はありません。(写っているのは、日見トンネルの説明板です(汗) 日見トンネルの話はまた後日)
手前から右手に伸びるのが旧国道34号、日見トンネルの東口があります。奥の坂道が旧長崎街道です。車両は通れません。
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長崎市内、日見トンネルの東口に小さな公園があるのが以前から気になっていたので、行ってみた。
「西の箱根」と称された日見峠の中腹、「梨子の木茶屋跡」だとか。標柱はあるのですが、説明板はありません。(写っているのは、日見トンネルの説明板です(汗) 日見トンネルの話はまた後日)
手前から右手に伸びるのが旧国道34号、日見トンネルの東口があります。奥の坂道が旧長崎街道です。車両は通れません。
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旧長崎街道矢上宿から永昌宿(諌早)に向かう途中に、立派な藤棚があります。
ここは、街道を通る旅人たちが休憩をとった茶屋でした。今年、花が咲くころを見計らって行ってみました。
こちらのお宅は、郷土人形として有名な古賀人形を制作していることで知られる小川家です。
この古賀人形は、長崎県指定伝統工芸品で、京都の伏見人形、仙台の堤人形とともに日本三大土人形の一つになっています。人形の種類としては、お国柄を反映して中国やオランダなど外人さんを扱ったものも見受けられます。
元々小川家の3代目が農業の傍ら神仏用の土器を作っていましたが、晩年に小型の人形を作るようになったのが発祥だとか(現地説明板より)。明治ごろは複数の家で作っていたようですが、今はここ1軒だけだとか。
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松原宿は大村宿と千綿宿の間にある宿場町で、南北約640m、71軒の家が軒を連ねていたといいます。宿場の中心にある八幡神社門前付近に、当時の面影を残しています。
松原村は建久元年(1190)、源頼朝の重臣工藤祐経が全国33か所に賜った領地の一つで、現地の管理者として下向したのが伊東家であると伝えられています。以後、代々八幡神社の別当を務めてきました。また戦国時代には、中岳の合戦で敗走した大村純伊を、松原浦から脱出させる際に手助けをしたといわれます。
五色塀
屋敷を囲む塀は「五色塀」と呼ばれる大村地方独特の造りで、松原宿ではここだけのようです。
奥に見えるのが八幡神社、手前が茶屋跡になります。松原宿には本陣・脇本陣がないので、元禄時代に酒屋を兼ねた休息施設として建てられたようです。今でも酒屋の店舗が残っています。
八幡神社参道入り口、茶屋の道向かいにあります。ここもまた、休息施設として利用されていたとのこと。その後、明治から昭和40年ごろまで旅館として使用されていました。中も見学できるらしいが、この日は閉まってました(^-^;
八幡神社前から大村方面にしばらく行くと、古い石垣が残っています。現在は市立松原小学校になっていますが、この場所に庄屋がありました。また、その門前には高札場があったようです。
ちなみに松原宿は「松原鍛冶」で有名な場所で、特に「松原鎌」で知られています。
東彼杵町立大楠小学校の正門前から少し降りると、一本の大きなクスノキが目に入る。江戸時代、ケンペルやシーボルトによって紹介された巨大なクスノキがありました。その大きさは周囲16.88m、直径5.37m、中は空洞になっていて畳8畳分の広さがあったそうです。
地元の伝説によると、その昔弘法大師がここを通られた時、杖を田の畔にさしたまま去られたとか。すると、その杖から芽が出て枝を伸ばし、数年後には大楠に成長したそうな。
東彼杵町出身で東洋大学の西田卯八教授は、樹齢3500年ほどで、「彼杵」の地名の語源ではないかと推察されている。
残念ながら、当時の大楠は明治時代の中ごろ、樟脳の原料として切り倒されたそうです。その後地元の人が一本の苗を植えたとも、切り株から新しい芽が出たとも伝えられており、現在に至っています。
彼杵宿は長崎街道の宿場町として栄え、大名行列やオランダカピタン、西洋の珍しい文物などが行き来していた。現在、東彼杵町の中心部である。今回、佐賀県側から入る。
国道205号線、役場前の交差点を海側に曲がると宿場の入口です。入口左手には横目役所があったとされています。
しばらく行くと、右手に彼杵人神社の入口があります。本陣跡です。現在は鳥居右側の石垣に当時の面影を残すのみだそうです。神社の右奥は彼杵小学校、彼杵村庄屋跡です。シーボルトも庄屋に泊ったといわれています。
街道左手には、制札場跡、脇本陣跡が続く。街灯の手前が制札場、街灯の先から電柱の辺りまでが脇本陣跡らしい。
しばらく行くと思案橋跡に出ます。平戸街道との分岐点です。この写真では手前が長崎街道嬉野方面、左手が大村方面、正面が時津渡し、右手が平戸街道になります。路面に色の違うコンクリートが並んでいますが、この下には「白井川」という川が流れており、その昔「思案橋」という橋が架けられていました。右手、建物が建っているあたりに問屋場があったそうです。
まっすく行くと時津渡し「元禄船着場」に出ます。ここから対岸の時津村まで船を使うのが、長崎までの近道でした。元禄時代に造られました。それまでは、彼杵川の河口にあったようです。26聖人乗船場跡がそれです。
思案橋から左に曲がると、広い空き地が左手に広がっています。この辺りには別当屋敷があったとされていますが、地元の人には旧太陽酒造の酒蔵跡といったほうがなじみがあるかもしれない。「エミフク」の銘柄で知られ、杵の川酒造の前身と聞きます。つい数年前まで倉庫群や煙突などが残されていましたが、取り壊されてしまいました。せめて「エミフク」の銘の入った煙突だけでも残してほしかったが、残念です。
この道をまっすぐ進むと彼杵川に出ます。宿場町はここで終わります。この道は元禄船着場ができたときに付け替えられており、元はもう一本海手を通っていました。写真は長崎口から思案橋方面を見たものです。
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