弥生時代に火葬?-大村市竹松遺跡
平成26年2月5日付の新聞記事を紹介します。
平成26年2月5日付の新聞記事を紹介します。
14日に明らかになった世界遺産推薦に関する政府方針は、ちょっと意外でした。
教会群には、長崎・熊本両県のキリスト教関連遺産13か所が挙げられています。
一方産業革命遺産は、八幡製鉄所、長崎造船所など九州山口を中心に28の資産が含まれている。この内8か所が長崎市内にある。もちろん一番多い。
長崎県内の事情はというと、産業革命遺産の準備は教会群に比べて遅れている。このことは国に何度も説明しているとか。また2015年が「信徒発見」150年に当たることから、教会群を推していた。
なので、地元も困惑しているようです。
教会群が落ちた理由をきちんと説明していただきたいものです。
長崎市中島川に架かる石橋「袋橋」については以前紹介しましたが、6月25日付のローカルニュースで特集が組まれていました。
この橋、隣の眼鏡橋と水面に移る影を撮影できることから観光客に人気のスポットです。ところが、夜間通行止めと重量規制をしているとはいえ、昼間は頻繁に車が通るので、結構危ない。
歩行者の立場から云うと、特に人物を入れて撮るときに落ち着いて撮れない。
運転手の立場で云うと、歩行者が危なくて神経を使う。
私は両方体験しました(汗)
この橋を通行止めにすると、眼鏡橋を挟んで反対側の魚市橋に迂回することになり不便だと云う事で、地元の商店街では難色を示しておられるようです。
数年前に耐震性の調査をしたときに、地元の要望で現在の規制になったらしく、長崎市の今後の対応は「研究中」だとか。
南島原市深江町の「権現脇遺跡」で、縄文時代前期から中期にかけて地層から、眉山噴火に伴う倒木痕が複数見つかったと発表があった。
遺跡の範囲は、島原市と南島原市にまたがり、雲仙岳噴火の火砕流で焼失した大野木場小学校の山手に広がっています。
眉山は雲仙岳の東山麓、島原市街地の背後にそびえています。寛政4年(1792)の山体崩壊では、多くの土砂が有明海に流れ込み、対岸の肥後ノ国に津波の被害をもたらしました。「島原大変肥後迷惑」という言葉の元になった山です。
今回発見された倒木痕は、火砕流によく似た「火砕サージ」により根こそぎなぎ倒されたものだとか。地元の新聞では、倒木痕ができるメカニズムまで図入りで解説されていました。
眉山が噴火したと云う文献記録はないようですが、それ自体火山だったんですねえ。
より大きな地図で 南島原市の史跡 を表示
長崎県壱岐市にある国の特別史跡「原の辻遺跡」の出土品を、国の重要文化財に指定するよう答申があった。
出土品の内訳は土器・土製品、木器・木製品、石器・石製品、ガラス製品、金属製品、骨格製品など1,670点。当時の大陸との交易や交流を示す資料として学術的価値が高いと評価されたようです。
原の辻遺跡と云えば、魏志倭人伝に出てくるクニのうち「一支国」の王都とされている場所です。「答申」と云う事は、「指定」までもうしばらくかかるようですが、今回指定を受ける出土品も早く特別重要文化財(国宝)に指定されることを、一県民として願っております。
(追記)
壱岐には何度か行ったことがありますが、ブログを始めてからはまだ行く暇が出来ません。今年こそは行きたいと思う今日この頃です。
面白かったので、紹介します。
リンク: <a title="ペルム紀末の致死的猛暑、再び起こる? - 速報:@niftyニュース" href="http://news.nifty.com/cs/world/worldalldetail/ng-20121019-20121019003/1.htm">ペルム紀末の致死的猛暑、再び起こる? - 速報:@niftyニュース</a>.
地球史上最大の「大量絶滅」と云われるペルム紀末の大量絶滅。地球上の生物の90%以上が死に絶えたといいます。また、他の大量絶滅時は数十万年で生物相が回復したにもかかわらず、ペルム紀の大量絶滅では500万年もかかったとか。その原因が「死ぬほど暑かった」からだという。海面温度が摂氏40度、お風呂並みの熱さです。イギリス、リーズ大学の古生物学者であるポール・ウィグナル(Paul Wignall)氏「コントロールを失って暴走する温室」と表現しています。
「暴走する温室」をどうやって止めたのか?
この過酷な環境で、我々の御先祖様はどうやって生き延びたのか?
気になります。
9月1日付の地方版に掲載されているので、紹介します。
長崎大学付属図書館によると、明治7年、長崎市の金毘羅山で金星の日面通過を観測したフランス隊の写真28枚が、フランス・パリの大学図書館に保管されていることが判ったとか。観測作業の流れや、フランス隊の技術の高さが分かる貴重な資料だそうです。
フランス隊の活動については、石碑や文献が残っていますが、記録写真がありませんでした。(現地金毘羅山の取材は、もう少し涼しくなってから行きます)。ぜひ一度、アメリカ隊に随行した上野彦馬の写真と併せて、地元で展示していただきたいものです。
8月22日付の文化面に、「秀頼は秀吉の実子か?」という論証不能のテーマについて書かれた記事が面白かったので紹介します。九州大学の服部先生が検証したそうです。
それによると・・・
・秀頼の誕生日から逆算。受胎時期は秀吉が朝鮮出兵で大坂を離れていたころ
・淀が同行したという記録に、信憑性がない
・同じ側室の京極龍子が同行した記録は信憑性あり
・淀同行の記録は、龍子を誤認した
・秀吉自身、生まれてくる子を実子ではないと思っていた節がある
・陣中から北政所に送った手紙の新解釈による
・秀頼誕生後にあった、僧侶や女房を多数粛清した一件に係る新解釈
・この粛清は従来風紀の乱れを正すためとされてきた
・中世の民俗事例に、子宝を願って社寺に籠もる「参籠」というのがある
・「参籠」が、実は男女交情の場であったこと
・秀吉の留守中に、「参籠」の祈祷があったのではないか
(新聞には具体的に書いてありますが、ご想像にお任せ)
秀頼は秀吉の実子ではない、というのが結論のようです。秀吉は自らの権力を正当化するために秀頼を実子と認めた、ということらしい。
関白秀次が失脚した理由や、関ヶ原で秀吉子飼いの武将が徳川方についた理由についても、「秀頼出生の正当性に対する疑惑があった」という視点で再検討されるべきと主張されています。
正室や多くの側室に子が出来ない中、淀だけ子宝に恵まれているわけで、淀が秀吉に同行したという確実な資料が複数出てきたとしても、潔白を証明できないところが、「論証不能」たる所以でしょうか?DNA鑑定も無理ですしね。
6月10日付の読売新聞の(くらし・教育)欄に標記の特集がありました。この中で「『複雑系』での検証」が面白かったので、紹介します。
検証したのは、新潟大学で「複雑系」が専門の中田氏。複雑系とは出発点となるデータを定め、一定のルールに従って少しずつ計算を繰り返し、未来に予測を延ばすものであるとか。その中身は・・・、
なんと、天孫降臨の地ではないですか。「邪馬台国東遷説」に繋がりそうな気配です。私も九州人なので、心情的には「九州説」なのですが、最近旗色が悪いと感じてました(汗)。いろんな視点から議論されることを期待します。
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