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2013年8月29日 (木)

日見トンネルー車社会を見越したトンネル

江戸時代、長崎と小倉を結んだ長崎街道。その中で日見峠は、「西の箱根」と称されるほどの難所でした。明治15年、日見新道が開通。このころはまだ人力車や馬車の時代でしたが、その後自動車が交通の手段となっていくと、大正15年に日見トンネルが完成しました。全長642m、幅員7.4m 当時として日本最大規模のトンネルです。

このトンネル、自動車が普及し始めたとはいえ、まださほど多くなかった時代、1車線分の幅員で造る案もあったらしいのですが、今後自動車がさらに普及することを見越して2車線分の幅員にしたと伝えられています。
今でこそ交通量も減っていますが、日見バイパスが開通するまでは慢性的な渋滞でした。車社会の度合いが、先人たちの予測を超えてしまったといえます。

平成13年登録有形文化財に登録されました。

Img_7509

手前に写っているのは、以前紹介した「梨子の木茶屋跡」です。

より大きな地図で 長崎市の文化財 を表示

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