日見峠新「新茶屋」跡ー日見新道開通により移転
日見峠の長崎側、旧長崎街道と日見新道が交差するあたりに「日見峠新茶屋の跡」碑があります。
しかし、江戸時代の「新茶屋」は、写真の急な坂道(旧長崎街道)を下りたところにあります。新道の開通で客足が遠のいたので、新道脇の現在地に移ったと伝えられています。
日見峠の由緒について、現地説明板では…
・日見峠では、江戸時代から昭和初期にかけて、毎年旧暦の8月1日(八朔)に日拝みをする習慣があり、多くの人で賑わった。日を見る峠で、「日見」というようになった。
・天正6年(1578)、長崎氏と深堀氏が当地で戦った際に、深堀氏側は大軍勢であることを装うために盛んに火を焚いたと伝えられる。火を見る峠で「火見」となったのを、後に「日見」と改めた。
・長崎奉行の送迎の際は、地元の役人が峠まで出迎え、見送りをする慣例があった。
と、あります。
天正6年の話は初耳ですね。長崎氏は今の長崎市中心部(長崎港の奥)を支配した領主、深堀氏は長崎市深堀地区(長崎港入り口付近)周辺を支配する領主です。日見峠は深堀氏から見て長崎氏の背後にある峠です。ここで両者が戦をするという状況が、どうもピンときません。長崎氏が領地を追い出されそうになったのでしょうか?
このころすでに、大村純忠によって長崎における南蛮貿易が行われています(長崎をイエズス会に寄進するのは、この2年後天正8年のこと)。当時の長崎氏はすでに大村氏の配下でした。深堀氏は後に竜造寺氏(その後鍋島氏)の配下となります。
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