南北に市糴す‐長崎県考古学会より
11月17・18の両日、雲仙市国見町で長崎県考古学会と肥後考古学会共催の大会があったので行ってみました。
テーマは「有明海をめぐる弥生時代集落と交流」。
長崎県南部の弥生時代遺跡には、熊本地方から搬入された土器が結構出てます。これらの土器が有明海を直接渡ってきているようです。現在人の感覚では、海は交流の障害のように思われますが、当時はむしろ活発な交流がなされていたであろうことが指摘されています。また、諌早の地峡を介して大村湾や橘湾とも繋がっていたと。そうなると、肥後から玄界灘に向かうルートとしては、長崎半島の先端(外洋)を回るより安全なはずです。
島原半島、大村湾岸には幾つかの拠点集落がありますが広い平地が少なく、、水田だけでは食べていけません。
「平野?あるじゃないか」と思った皆さん、今ある平野のほとんどは、県内最大の諌早平野をはじめ、江戸時代以降の干拓でできたものです。大村の平野が一番広そうですが、ここも扇状地のため水田は海岸に近いところだけです。魏志倭人伝に云う「良田あるも食するに足らず、南北に市糴す」状態であったようです。海のネットワークは弥生中期ごろに始まったようです。その「画期」は何かと云うと、明確な答えは出なかったように思いますが、ちょうど大陸では「秦」の時代であり、佐賀平野に残る「徐福伝説」との関連も指摘されています。
「海上交流」は弥生時代に限ったことではなく、後々の時代でも特に西北九州の歴史を考える上で、押えておくべきキーワードです。
ある説に、「肥前と肥後が海を隔てて分かれているのはおかしい。肥前国は本来筑紫国だったのではないか」と云うものがありますが、考古学的に見ると間違いのようです。海は「隔てている」のではなく、「繋いでいる」のです。
地元ではこの大会に合わせて「島原半島の弥生時代展」をやっています。期間は今月いっぱいのようです。
資料館の建物自体古い校舎を利用しており、なかなか趣のある感じです。
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