旧円融寺庭園-2度目のお家存亡の危機
大村市の護国神社がある場所は江戸時代、天台宗円融寺がありました。承応元年(1652)、4代藩主大村純長により徳川将軍家の位牌を祀るために建立されました。創建に当たっては、捕鯨業で莫大な富を築いた深沢勝清の寄進を受けています。現在も残る庭園は、巨石を多く使用し、「三尊方式」の石組は桃山時代の様式を残しているとか。昭和51年、国の名勝に指定されています。
正保4年(1647)3月ごろから、3代藩主純信の養子として伊丹勝長の子純長を迎えるべく幕府と話し合いをしていました。ところが慶安3年(1650)5月26日、正式に跡継が決まらないうちに純信が亡くなってしまいます。幕府は、当時江戸にいた家老大村純茂(最初の存亡の危機を救った純勝の子)を国元に送る一方、伊丹純長に跡を継がせるよう進めています。
純信の正室は伊丹勝長の娘で、純長の姉になります。さらに純信の父、2代藩主純頼の妻の兄弟に当たる人物に家老の松浦政直がいますが、その政直の娘と婚姻することで、4代目を継ぐ運びでした。
一見順調に見える跡目相続ですが、これに横やりを入れた人物がいます。肥前島原藩高力忠房の家臣白石一郎右衛門です。高力忠房は島原の乱後の島原半島を復興するため浜松藩から移封されており、九州監察の役目も負っていました。
一郎右衛門は、大村藩士大村虎之助、大村太左衛門、渋江道無に面会し、こう云います。
「貴家に親せき筋の大村虎之助殿を跡目にしたい動きがあるとか。もし虎之助殿を立てるつもりであれば、重役の方々と協議する機会を作ろう。私の主君(高力忠房)は話の判る人なので、必ずや便宜を図ってくれよう」
この話、迂闊に乗ったら間違いなくお取り潰しでしょう。驚いた3人は家老二人に、伊丹家から養子を迎えることに異存がない旨、誓約書にしたいと願い出ます。これを受けて同年7月に、主だった藩士による誓約書が作成されています。こうして翌慶安4年2月20日、純長は正式に大村家の4代藩主となりました。
純長は、無事跡目相続できたことに感謝するため、特に許されて将軍家の位牌を祀る寺を建立しました。
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