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2012年7月14日 (土)

伊万里街道の舞相一里塚跡

 原マルチノの像を見るため波佐見町の旧公民館を訪れると、そこに銅像はなく、代わりに一里塚跡の標柱が建っていました。

Photo

 伊万里街道は長崎県川棚町の平戸街道から分岐し、ほぼ今の県道4号線に沿って佐賀県有田町に入ります。この県道4号線と1号線の交わる場所に一里塚はありました。ちなみに、1号線を東へ進むと、佐賀県の武雄市・嬉野市へ、西へ進むと佐世保市三川内にでます。
 大村藩の記録『郷村記』では、川棚・波佐見間を「波佐見往還」、波佐見・有田間を「有田往還」としているようです。

 波佐見町は佐世保市の三川内焼、有田町の有田焼と並ぶ焼き物(波佐見焼)の産地で、しかも三つの産地はお隣同士です。ここで作られた焼き物は伊万里街道を通って伊万里港へ運ばれ、そこから積み出されました。したがって、これらの産地を含む肥前の国で生産された磁器を「伊万里焼」といいます。

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