大村藩と戊辰戦役(後編)-北伐軍の秋田救援
戊辰戦役の舞台が関東から東北に移るころ、東北の多くの藩が会津藩に味方する中、秋田久保田藩は新政府側につきます。そのため久保田藩は周辺諸藩から攻撃を攻撃を受けることになりました。特に庄内藩の久保田藩攻略において、その途中にある角館、刈和野、神宮寺一帯では激しい攻防戦が繰り広げられ、新政府軍は苦戦を強いられていました。
新政府軍劣勢に対して岩倉具視は九州からの援軍派遣を発議します。大村藩最後の藩主純煕公の事績を記した『台山公事蹟』によると、岩倉具視から「近隣の諸藩を含めて千人の援軍を派遣してほしい」と依頼されています。
純煕公は自藩だけで千人揃える意気込みであったようですが、結果的に大村藩、平戸藩、島原藩、長崎常備兵振遠隊で計千名の援軍を派遣します。このうち大村藩隊(1番隊~4番隊、大砲隊ほか随員)総勢326名。大村藩は英国式の軍制を採用していたため、1番隊から4番隊までの各隊に鼓手1名を付けていました。この秋田へ向かう大村藩隊を地元では「北伐軍」と称しています。大村藩では東征軍の活躍が伝わっている最中で、志願者が続出したと云われています。
9月21日夜長崎港を出港した北伐軍は、9月26日午前に秋田の外港に到着。そこから秋田城下を経て角館に到着します。そして10月上旬には角館の攻防戦、10月下旬には刈和野の攻防戦が繰り広げられます。
東北ではすでに雪が降る季節。南国の兵士たちにとっては、寒さとの戦いでもあったようです。特に刈和野の激戦では大村藩隊の被害も大きく、死傷者は43名に及んだといいます。15歳で2番隊鼓手として参戦した浜田謹吾もこの戦闘で命を落としました。血染めの衣の襟には、出征の際わが子を励ますために母が詠んだ歌が縫い付けてあったとか。
「二葉より手くれ水くれ待つ花の君がみために咲けやこの時」
地元の人々は、大変心を打たれたと聞きます。そうした縁で角館町(現仙北市)と大村市は昭和54年(1979)、姉妹都市になりました。写真は大村市玖島城跡にある銅像ですが、角館にも同じ銅像があるそうです。
戊辰戦役での論功行賞では、朱印高2万7千石の大村藩に3万石が与えられました。これは薩摩・長州の10万石、土佐の4万石に次ぐもので、肥前佐賀の2万石より多い額になります。他に3万石拝領した大名家と云えば因幡鳥取32万石、美濃大垣10万石、信濃松代10万石、日向佐土原2万7千石だけのようです。如何に頑張ったか判ります。
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