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2012年7月29日 (日)

江串三郎入道塚-伝江串三郎の墓

 東彼杵町里郷江の串川の左岸、国道と旧長崎街道に挟まれた場所に江串三郎の墓と伝えられている「入道塚」があります。観音堂や中世の石塔、江戸初期の五輪塔などが祀られています。

 大正14年の記録に、明治の初期に塚が壊されたときに人骨と刀片2個、高麗焼といわれる陶器(おそらく6世紀の須恵器?)が出土し、工事が中止になったとあります。壊される前は今の3倍ほどの大きさがあったようで、元々は古墳であったと考えられています。

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 元弘3年(1333)3月14日江串三郎尊良親王を奉じて挙兵、近隣の豪族に参加を呼びかけます。ところが3月20日には鎮西探題からの討伐軍が来襲します。結果的に思うように兵が集まらず敗北してしまいます。その2ヶ月後の5月25日に鎮西探題が滅び、翌26日尊良親王は大宰府に姿を表します。

 少し遡って3月5日、幕府軍が楠木正成の千早城攻略に失敗し退却。3月12日長門探題が四国の宮方に敗北するなど、日に日に天皇方に有利に展開します。ところが、3月5日の情勢が九州に伝わるのが3月20日のことで、江串三郎が挙兵したころはまだ幕府方優勢という空気だったと考えられます。3月24日には江串一族の首、捕虜が博多に到着するも、鎮西探題にしても雲行きが怪しく感じられ始め、尊良親王江串三郎の捜索どころではなかったようです。

 上方の情報がもう少し早く九州に伝わっていらば、また違った展開になった事でしょう。不運としか言いようがありません。

 ちなみに江串三郎の挙兵についての史料は『博多日記』だけだとか。この日記は博多にいた良覚というお坊さんが、当時の九州・四国の動向を記したもので、年号が「正慶」なので武家方の記録です。元々加賀前田家に所蔵されていたもので、明治時代になって世に出たといいます。

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