大村藩と戊辰戦役(前編)-東征軍の派遣
玖島城二の丸跡に戊辰戦役の記念碑が建っています。
慶応4年(1868)1月27日鳥羽伏見の戦いがおこると、大村藩は薩摩・長州と行動を共にしており、新政府軍として東からの旧幕府軍の攻撃に備え大津の守備に当たったと云います。その後新政府軍が江戸に向けて進軍、大村藩隊(1番隊)は東海道征討軍5万人の先鋒を務めました。
同年3月江戸城の無血開城、彰義隊との戦いを経て舞台は東北へ。会津若松へと進軍する大村藩隊は旧暦8月、途中の三春で海路大村から来た応援隊(2番隊)と合流、二本松へ進軍します。このとき「大村藩隊は、彦根・備前・柳川三藩と共に二本松の守備に当たるべし」との下命がありますが、これに怒った大村藩兵は「会津攻略に参加できないなら大村へ帰る」と云い出します。結局二本松の守備は佐土原藩と交代、会津戦争に参戦することになります。
戊辰戦役での大村藩の活躍については、早い時期に洋式銃を採用、軍制改革がもたらした結果であるとか。この時の大村藩部隊を地元では「東征軍」と呼んでいます。これとは別に「北伐軍」を編成し派遣していますが、その話はまた次回。
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コメント
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大村藩素晴らしいです。
投稿: | 2012年8月 3日 (金) 18時11分
コメントありがとうございます。領民に代わってお礼申し上げます(*^.^*)。
投稿: 高来郡司 | 2012年8月 4日 (土) 00時05分