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2012年6月30日 (土)

大村彦右衛門純勝、お家存亡の危機を救う

 大村公園入り口から車で5分、県立大村城南高校裏手の住宅地に、大村市指定史跡「大村彦右衛門の墓」があります。

Photo

 大村彦右衛門純勝純忠喜前純頼純信の4代の藩主に仕え、大村藩の基礎を固めた名家老として知られています。

 大村藩初代喜前公の死後3年、元和5年(1619)2代藩主純頼公までもが急死します。お世継ぎの松千代君(後の純信公)はまだ2歳、未だ跡継の届け出をしていなかった為、藩はお取り潰しの危機にさらされます。このとき家老であった彦右衛門は、松千代と江戸に上り老中たちに大村家の存続を訴え、また大阪城の普請を請け負うなどして半年後大村家の存続が認められます。このとき活躍した大村彦右衛門松浦右近は後々まで讃えられ、代々別格の家老として扱われたとか。

 また、彦右衛門には「亀千代」という当時3歳の娘がいました。松千代君が相続問題のさなか大病を患ったため、彦右衛門は「松千代君の病気を治してくれたら、娘を身代わりに差し上げます」と神仏に祈ったとか。そして願いがかなった時、彦右衛門は自らの手で娘の命を奪ったといいます。現在墓所の入口には、松千代の身代わりとなった亀千代の霊が祀ってあり、これを「身代わり観音」と呼んでいます。中を見ることはできませんでした。

Photo_2

 なお、玖島城本丸跡には彦右衛門の功績をたたえた碑があります。

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コメント

はじめまして
ナツメの10ちゃんといいます。
身代わり観音の話、すごい話ですね。
お家を預かるものとしての、ある意味での悲劇ですね。
娘を持つ身としてはなんとも…。

はじめまして。コメントありがとうございます。
何事にもお家大事という事でしょうか。
こういう話を聞くと、「忠義」なんて言葉、軽々しく使うものではないと思います。

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