郡崩れ-大村藩3度目の存亡の危機
島原の乱から20年後の明暦3年(1657)、肥前の国大村藩領内に潜伏キリシタンが多数発見されました。一般に「郡崩れ」と呼ばれています。
事の起こりは、大村領郡村矢次の百姓兵作が長崎油屋町の指物屋池尻理左衛門に、「矢次の里に天草四郎の生まれ変わりがいる。萱瀬の久良原(きゅうらばる)岩窟に隠している絵を取り出して、実に不思議な術法を説く。興味があれば連れて行ってもよい・・・」、と漏らしたことによります。それを聞いた理左衛門は「これは一大事」と長崎奉行所に訴え出ました。
奉行所はただちに兵作を尋問し、状況はすぐに大村藩に通報されました。大村城内では大変な騒ぎとなり、連日関係者の逮捕尋問が行われたとか。
最終的に投獄者608名に膨れ上がります。あまりに多いため大村・長崎・佐賀・平戸・島原の5か所で取り調べの上、処分されました。
このうち大村領内については、キリシタンの絵を祀っていた萱瀬の「仏の谷」・杭出津の「妻子別れ石」・共和町の「放虎原殉教地」・松並の「獄門所跡」・桜馬場の「胴塚跡」・原口町の「首塚跡」があります。但し「仏の谷」については、近くにある萱瀬ダムのかさ上げ工事で周囲の景観が変わったため、場所が特定できませんでした。
当時の藩主は、第4代純長公。6年前の慶安4年(1641)に家督を継いだばかりの21歳でした。純長公は譜代大名伊丹勝長の子で、家督を継いだ経緯については、また後日(ちなみにこれが2番目のお家存亡の危機でした)。
本来なら御取り潰しになってもおかしくない事件なのですが、純長公は実家を通じて直ちに幕府に報告したことから、お咎めはなかったといいます。
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