玖島(大村)城をさるく1-順天倭城の経験
玖島城、別名大村城は、大村藩27,900石の居城で、慶長4年(1599)大村家19代で藩祖大村喜前(よしあき)が築城しました。
三方の海を外堀に、その北側に大手を造りました。この時期の石垣は自然石をそのまま積み上げたものです。また、北側の海岸は遠浅なため海から攻められたときに備え、海中に深さ4mの「捨堀」を巡らせていました。これはほかの城に見られない独特なものです。
現在城の北側は埋め立てられており、市役所や競技場などが出来ています。
この城を造るに当たっては、順天倭城の経験が生かされています。順天倭城は、文禄慶長の役で日本軍が築いた倭城群のうち西の端にあり、小西・松浦・有馬・大村・五島の各大名が駐留していました。
慶長3年(1598)、百姓から天下人になった「戦国時代の出世頭」太閤秀吉が死去。これを受け日本軍は朝鮮からの撤退を秘密裏に進める手はずでしたが、情報が漏れてしまいます。結果、順天倭城は敵に囲まれてしまいますが、三方を海で囲まれた天然の要害であったため、味方の援軍が来るまでなんとか持ちこたえることが出来ました。
帰国後、政情不安から新たな城造りの必要性を感じた喜前は、それまでの居城三城城から水軍の運用に適した玖島の地に、順天倭城の経験を生かした城を築くことになります。
その後20代(2代藩主)純頼(すみより)が慶長19年(1614)に大改修を行い、大手を南側に、石垣も美しくつくりかえました。この大改修で肥後の加藤清正が城造りのアドバイスをしたといわれています。
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