932年前の金環食
国内の広い範囲で見られる金環食としては932年ぶりという事で、932年前の出来事を調べて見ることにしました。
西暦1080年の出来事が載っていそうな書物というと、「今鏡」「扶桑略記」「水左記」「帥記」「江記」「為房卿記」「時範記」あたりでしょうか?原資料は地方ではまずお目にかかれないので、東京大学史料編纂所から出ている「史料綜覧第二」のお世話になりました。
調べてみると承暦4年11月1日(ユリウス暦1080年12月14日・グレゴリオ暦1080年12月20日)に「日食」の記述がありました。(史料綜覧では「月食」と書かれていたのですが、前の月の15・16日にも「月食」の記述があるので、日数から考えて日食ではないでしょうか?)
「物の怪」や「怨霊」が普通に信じられていた時代です。災害や戦乱の記録を期待していたのですが、今回使用した史料には、同年6月の大雨と7月の地震が載っていました。翌年は災害等の記録はないようです。三ヶ月後に「承暦」から「永保」に改元しますが、日食の為ではなく「辛酉革命」によるもののようです。こじ付ければ、永保3年「後三年の役」の前兆だったという事で。
記録を書いたのは日食の何たるかを知っている貴族たちな訳で、一般民衆は物の怪か怨霊の仕業とでも思ったのではないでしょうか。
寿永2年閏10月1日(ユリウス暦1183年11月17日、グレゴリオ暦1183年11月24日)の源平合戦(水島の合戦)のさなかにあった金環食では、日食のことを知らない木曽義仲軍が大混乱に陥って敗走してしまうという記録があります。
100年後でもこれだけ慌てているわけで、当時国内の広い範囲で金環食もしくは部分食が見られたという事は、それだけ多くの民衆が慌てふためいたのではないでしょうか。そんな史料が見たかったですね。
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