俊寛僧都墓碑
今年のNHK大河ドラマ「平清盛」。その関連遺跡があると聞き、長崎港入り口に浮かぶ伊王島まで来ました。
伊王島までは数年前伊王島大橋が開通し、車で行けるようになりました。
車で行くなら島の西側の道を通ると墓碑まで行けます。途中、俊寛がねぐらにしたと伝えられる岩窟への入口を示す説明板があるのですが、険しそうなので今回はやめます(^-^;
墓碑のある場所は公園になっており、車が数台止められます。
治承元年(1177)平家打倒の密議(鹿ヶ谷の謀議)が露見し、藤原成経、平康頼とともに鬼界ヶ島(硫黄島)に流されたとされています。成経と康頼は後に許されて京に戻りますが、俊寛僧都はこの地で亡くなります。
碑ははじめ、江戸中期の宝暦6年(1756)に建立されますが、天保14年(1843)の台風で倒墓れてしまいます。その後弘化2年(1845)に再建されたものが今日まで残っており、長崎市(旧伊王島町)の指定文化財になっています。江戸時代の中ごろには、俊寛が流された島がこの伊王島であると信じられていたようです。
墓碑の隣には、北原白秋の歌碑が建っています。風化がひどく不鮮明ですが、昭和10年、俊寛の墓所を訪れた白秋が「伊王島」と題して詠んだ長歌と反歌です。昭和25年に地元の文人たちによって建てられたものです。(現地案内版)
しかしなぜ、俊寛ら3人はこの地に流されたことになっているのか?
伊王島大明寺教会の裏手に藤原成経草庵跡の説明板があります。それによると、清盛の弟で成経の義理の父にあたる平教盛が、薩摩の国の硫黄島に流されるはずの3人を、自分の領地肥前の国に同名の伊王島があることからこの地に流し、都には薩摩の硫黄島に流したと報告したらしい。
俊寛僧都の遺骨が残っているとは思えないし、公的な記録は薩摩の国に流したことになっているので、肥前に流したという私的な記録でも出れば決まりでしょうが、真相は歴史の彼方に。
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