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2012年1月22日 (日)

大村藩主大村家墓所

国指定史跡大村藩主大村家墓所は旧長崎街道そば、大村市本経寺の境内にあります。

本経寺は、国道34号線共和町交差点から大村駅の方へ入って間もなくの所です。旧街道から墓碑が見えるはずなのですが、家が立ち並んでいる為見えない(^-^;

山門をくぐって左に行くと、歴代の藩主と筆頭家老松浦家の墓碑が立ち並んでいます。墓石の大きさ、加工技術、種類の多さは、27,000石の小藩にしては破格の規模です。

Photo  

これらの巨大な墓碑、長崎街道から見えるように作られています。キリシタン大名大村純忠の時代はキリスト教一色でしたから、キリスト教が禁教になってからは、仏教の復興に努め、特に島原の乱後、墓碑が大きくなります。自分たちが仏教徒であることを、長崎街道を通る幕府の役人たちにアピールしたかったのでしょう。

22代(4代目藩主)純長の墓碑は高さが6.5m、台座の上2段が1個の石から出来ているとか。当時としては最先端の技術だったらしい。

Photo

墓所の北側、恐らく一番上座に当たると思われる場所にお堂があり、その中に16代太宗純伊、19代中興(初代藩主)善前の墓碑が祀られています。右が太宗、左が中興です。

Photo_2 Photo_2

当主の代数は藤原純友を初代としているようです。2代目から15代目までは事績がよく判らないので、「欠史14代」とでもしておこう。この墓所にもありません。確実に記録に表れるのは16代目からのようです。

純伊は一度失った領地を取り戻したという事で太宗と呼ばれるようです。

善前は初代藩主で、仏教の復興に尽力した功績でしょうか。

この墓所を整備したのは4代藩主の純長なのですか、2代目3代目と短命藩主が続き、お家存亡の危機だったことを考えると、純長こそ中興の祖ではないかと個人的には思うのでした。

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