コメント・トラックバックについて

  • 申し訳ありませんが、以下のコメント・トラックバックは公開しないか排除させていただきますので、ご了承ください。 1.記事内容と関係のない内容のコメント・トラックバック 2.ブログのテーマに合わない内容のコメント・トラックバック 3.外国語のコメント・トラックバック 4.特定サイトへの勧誘のみのコメント・トラックバック 5.見た人を不快にさせる内容のもの 6.その他このブログに相応しくないと判断したもの

バナー

  • トレンドポスト
  • 九州沖縄の展覧会
  • 長崎の歴史と旅の遊学サイト「旅する長崎学」
    旅する長崎学
無料ブログはココログ

« 千綿村庄屋跡 | トップページ | テレビドラマ「水戸黄門」 »

2011年12月13日 (火)

東彼杵町のキリシタン墓碑

先日紹介した庄屋公園の片隅に二つの石碑が安置されています。長崎県指定有形文化財に指定されているキリシタン墓碑です。元個人の敷地にあったものですが、数年前にこちらへ移転したそうです。

Photo

Photo_2 Photo_3

指定は2基1セットなのですが、一説によるキリシタン墓碑は左の小さいほうで、右の墓碑は仏式だそうです。たしかに、右の墓碑には梵字らしきものが彫られています。

 左の墓碑は風化が進んで見えにくいのですが、花十字と「元和7年卯月一瀬志ゆ阿ん(いちのせジュアン)」の銘が彫られています。

 慶長7年(1602)、大村藩でも初代藩主で大村純忠の子である善前(よしあき)が日蓮宗に改宗し、キリシタンへの弾圧が始まります。元和2年に初代藩主善前、5年に2代藩主純頼(すみより)が相次いで亡くなります。これにはキリシタンによる毒殺説がささやかれています。弾圧はさらに厳しくなり、元和8年(1622)元和の大殉教にいたります。

 県内の残るキリシタン墓碑は無紋無銘が多く、花十字、年号、銘が入ったものは少なく、キリシタン資料として貴重です。

より大きな地図で キリシタン墓碑 を表示

« 千綿村庄屋跡 | トップページ | テレビドラマ「水戸黄門」 »

キリシタン史」カテゴリの記事

東彼杵郡」カテゴリの記事

近世」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 東彼杵町のキリシタン墓碑:

« 千綿村庄屋跡 | トップページ | テレビドラマ「水戸黄門」 »

2020年12月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック