中岳古戦場跡
長崎県大村市萱瀬地区、郡川と支流の南川内川が合流する付近に古戦場跡の石碑があります。大村純伊が領土を追われるきっかけとなった場所です。
文明6年(1474)、京の都ではいまだ応仁の乱の真っ最中、ここ肥前の国でも戦国時代の足音が聞こえてきます。
島原半島南部を拠点に勢力を伸ばしていた有馬貴純は、約2000の兵を率いて諌早本野からここ萱瀬谷に侵攻します。大村純伊は約700の兵で、有馬勢を迎え撃つべく布陣。12月29日、いよいよ両軍が激突しますが、大村勢も第1陣の長岡越前、第2陣の庄左近が善戦します。
ところが後方第3陣に控えていた鈴田道意が突然寝返ります。純伊は義理の兄にあたる人物に裏切られたことになります。これにより大村勢は大敗し、佐賀県呼子の沖合加唐島まで落ち伸びることになります。
長崎街道をはじめ、現在の鉄道国道が大村から諌早に抜けるには海岸線に近い鈴田峠を越えますが、この峠の大村側を鈴田といい、鈴田氏の領地だったと思われます。諌早から大村に攻め込むには鈴田峠を越えそうなものですが、なぜか萱瀬谷の方へ迂回しています。もしかすると鈴田氏の寝返りと関係ありか?
純伊が領土を回復するのは、6年後の文明12年のことです。
大村純伊は、キリシタン大名大村純忠の祖父にあたりますが、純忠以前のことはまだよく判っていません。
大村氏は元々藤原純友の子孫を称していたようですが、戦後の研究では平姓ではなかったかとされています。純伊本人についても、周辺の文献資料を照らし合わせると、その事績に食い違いがあり、純伊の父とされる大村純治と同一人物ではないかと云う説もあります。実はこの中岳合戦も年代に疑問がもたれています。今後の研究を待ちたいものです。
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