長崎街道彼杵宿
彼杵宿は長崎街道の宿場町として栄え、大名行列やオランダカピタン、西洋の珍しい文物などが行き来していた。現在、東彼杵町の中心部である。今回、佐賀県側から入る。
国道205号線、役場前の交差点を海側に曲がると宿場の入口です。入口左手には横目役所があったとされています。
しばらく行くと、右手に彼杵人神社の入口があります。本陣跡です。現在は鳥居右側の石垣に当時の面影を残すのみだそうです。神社の右奥は彼杵小学校、彼杵村庄屋跡です。シーボルトも庄屋に泊ったといわれています。
街道左手には、制札場跡、脇本陣跡が続く。街灯の手前が制札場、街灯の先から電柱の辺りまでが脇本陣跡らしい。
しばらく行くと思案橋跡に出ます。平戸街道との分岐点です。この写真では手前が長崎街道嬉野方面、左手が大村方面、正面が時津渡し、右手が平戸街道になります。路面に色の違うコンクリートが並んでいますが、この下には「白井川」という川が流れており、その昔「思案橋」という橋が架けられていました。右手、建物が建っているあたりに問屋場があったそうです。
まっすく行くと時津渡し「元禄船着場」に出ます。ここから対岸の時津村まで船を使うのが、長崎までの近道でした。元禄時代に造られました。それまでは、彼杵川の河口にあったようです。26聖人乗船場跡がそれです。
思案橋から左に曲がると、広い空き地が左手に広がっています。この辺りには別当屋敷があったとされていますが、地元の人には旧太陽酒造の酒蔵跡といったほうがなじみがあるかもしれない。「エミフク」の銘柄で知られ、杵の川酒造の前身と聞きます。つい数年前まで倉庫群や煙突などが残されていましたが、取り壊されてしまいました。せめて「エミフク」の銘の入った煙突だけでも残してほしかったが、残念です。
この道をまっすぐ進むと彼杵川に出ます。宿場町はここで終わります。この道は元禄船着場ができたときに付け替えられており、元はもう一本海手を通っていました。写真は長崎口から思案橋方面を見たものです。
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