大村純忠に殉じた武将ー小佐々弾正・甚五郎塚
佐世保市JR南風崎(はえのさき)駅から、国道を通らず一つ先のJRハウステンボス駅に抜ける細い道を進むと、
右手に塚への案内板が立っています。この位置からは塚の全容がつかめませんが、左手の道を登ってみました。
しばらく行くと、昔から「ダンジョウ様」呼ばれた古い墓が竹山の中に姿を現します。もっとも、今目にすることができるのは、平成4年に小佐々一族によって整備されたものです。
小佐々弾正純俊(こささだんじょうすみとし)は、宇多源氏の流れを組み、小佐々水軍を率いる武将で、西彼杵半島から五島灘の島々を領有していました。
ときに永禄12年(1569)、葛の峠(くずのとうげ)の合戦に大村方として参戦、武雄の後藤貴明(たかあきら)、平戸の松浦鎮信(しげのぶ)の連合軍と戦いますが敗走します。このとき、大村方の総大将、キリシタン大名として知られる大村純忠(すみただ)を逃がすため殿(しんがり)を務め、討ち死にしてしまいます。
小佐々甚五郎純吉(じんごろうすみよし)は弾正の甥で、西彼杵半島中浦城主でした。この戦で討ち死にした叔父の首を敵方に奪われないよう持って逃げますが、この南風崎の地で追手に遭遇してしまいます。小佐々氏本領の援軍が駆け付け敵方を撃退しますが、時すでに遅く甚五郎も討ち死にしてしまいます。そして二人の亡骸はこの地に手厚く葬られることになりました。
なお、大村純忠がヨーロッパに派遣した天正遣欧少年使節の4少年の一人中浦ジュリアンは、小佐々甚五郎純吉の子であることが近年明らかになったそうです。
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